「水源」277ページ上段 より引用開始


ドミニクは、採石場を見下ろす。彼女の目がある作業員のオレンジ色の髪の上に、止まる。その男は、頭を上げてドミニクを見つめていたから。

ドミニクは、じっと身動きもしないで立っている。ドミニクが最初に感じたのは、視覚的なものではなく、触覚的なものだった。それは自覚だった。目に見えるものを認識したという自覚ではなくて、顔ををぴしゃりとぶたれた自覚である。

彼女は、片手をぎこちなく体から離した。手の指が、まるでそこに壁があるかのように、その壁に押し付けるかのように、宙に広げられた。その男が許すまで、自分は動くことができないのだと、ドミニクは感じたのだ。

引用終わり

「水源」272ページ下段 より引用開始

ロークは、この仕事が好きだ。自分の筋肉と花崗岩がレスリングの試合をしているかのように、この作業を感じるときが、ロークはままある。

夜になるとひどく疲れを感じる。体が消耗しきって虚脱する感覚が、ロークは好きだ。

***中略***

ロークは、屋根の増したにある木造の狭い屋根裏部屋で眠る。ロークのベッドの上には、天井板が斜めにかかっている。雨が降ると、屋根に雨の水滴がぶつかる音が聞こえる。こんなにも、真近に、はっきりと雨が屋根を打つ音が聞こえるのに、自分の体に雨を感じないのはなぜか、理解するのに手間取ってしまう。

***中略***

ロークは、過ぎていく日々を思う。自分が手がけることができたはずの、自分がそうするべきであったはずの、たぶんもう再び手がける機会などない建物のことを考える。

ロークは、冷たい距離のある好奇心で、心に抱えた自分お痛みを凝視する。巣の痛みは形となって彼の心に浮かぶというものではなかったが。

ロークは、自分に言う。いいさ、また待つ時期が来た。今度の待ち時間はどれほど長くなるだろうとロークは考える。この苦しさと痛みと自分が戦っていることを眺めることは、ロークに奇妙な硬質な悦びを感じさせる。

それは明らかに自分の戦いであり、自分の苦しみなのに、ロークはそのことを忘れることさえできる。自分自身の痛みにさえ軽蔑の微笑を寝外科けることができる。それでいながら、ロークは自分が嘲笑している対象は、自分自身の苦闘だと意識していない。

そんな瞬間はめったに来るものではなかったが、しかしそんなときが来ると、ロークは自分が採石場にいるように感じる。僕は、花崗岩にドリルを突き刺すのだ。岩を裂き粉砕するのだ。自己憐憫の感情を呼び起こす僕自身の中の何ものかを、僕は粉砕しなければならない。


引用終わり

「水源」266ページ下段 より引用開始

ロークは、事務所に歩いて戻った。製図道具や、事務所にあるいくつかの私物を集めた。それらは、たった一つの包みに、まとまった。ロークは腕の下にその包みを抱えた。事務所のドアの鍵をかけて、管理人に告げる。アパートまで歩いて帰り、包みを置いた。それから、マイク・ドニガンの家に出かけた。

「駄目だったか?」と、ロークを一目見て、マイクが言う。
「駄目だった」と、ロークは答える。
「何が起きた?」
「またいつか、話す」
「ろくでなしどもが!」
「マイク、気にしないで」
「じゃあ、事務所はどうなる?」

「事務所は閉じた」
「ずっとか」
「当分の間は」
「くそ、忌々しい連中だぜ、赤毛よお。ほんとにどうしようもない馬鹿ばかりだな!」
「いいんだ、仕事がいるんだ。マイク。助けてくれないか?」
「俺が?」
「ニューヨークの、こういった業界には、誰も知り合いがいないんだ。僕を助けてくれるような知り合いはいない。あんたは、知っているだろう、この業界の人なら」
「どの業界だ?何のことを言っている?」
「建築工事のさ。現場仕事のさ。前に僕がしていたみたいな」
「つまり、その工事現場の作業員ってことか?」
「そう、工事現場の作業員」
「あんた、頭がおかしくなってるぞ。大丈夫か?」
「やめてくれよ、マイク。仕事紹介してくれないか?」
「しかし、いったいなんで?設計事務所で聞こえのいい職につけるだろうが。できるって、わかっているだろう」
「その気がないんだ、マイク。もうしない」
「なんでだ?」
「もう、触りたくもないんだ。見たくもない。世間がしたいことをするのを手助けする仕事はしたくない」
「似たような線で、聞こえのいい汚れない職につけるだろうが」
「いずれは、聞こえのいい汚れない職を考えなければならなくなるだろうけど、今は考えたくない。そういうのはしたくない。僕がどこに行こうと、世間のやり方でしなくてはならないだろうからな。世間のことは考えないで済む仕事が欲しい」
「建築家は現場作業員の仕事はしないもんだ」
「ここにいる建築家ができるのは、それだけなんだ」

***中略***

「ないことはないぞ。あるぞ。前に言っただろ、俺が。理由を聞けよ。あんたがいる金ならば、あんたが仕事でできるまで・・・」「オースティン・ヘラーに言ったことを、あんたにも言うよ。金などくれたら、僕たちの友情はおしまいだ」
「なんでだよ?」
「マイク、議論はしない」

「しかしだ・・・」
「僕は助けてくれって、僕はあんたに本気で頼んでいる。そういう仕事が欲しいんだ。僕がかわいそうだなんて思うことはないよ。僕はそんなふうに自分のこと思ってないから」
「しかし、・・・しかし、なにが起きるかわからないぞ、赤毛よお」
「どこで何が起きるって」
「つまりさ・・・未来のことだけど」
「金が貯めたら、またもどってくる。さもなきゃ、その前に誰かが僕を呼びに来るさ」

***中略***

「現場監督にひとりが、今、ちょうどこの街に来ている。採石場で働いたことあるか?」
「一度ね、随分、昔のことだけど」
「そこならいいか?」
「もちろん」
「そいつに会ってくるよ。あんたの素性は言わないことにしようぜ。単に俺の友だちってことで。それでいいよな」
「ありがとう、マイク」
マイクは、コートに手を伸ばして、それから両手をだらりと落とした。床を見つめている。
「赤毛よお」
「これでいいんだ、マイク」


引用終わり