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ハワイへの道

いつまでも元気でハツラツとして若々しく生きて、寿命が来たらコロッと逝くためには、どうしたらいいか?と言う事をいろんな話をしながら考えていくブログ。

4月29日今日は昭和天皇誕生日?


いや、合ってるけど違う!


今日はみどりの日?


それも今は違う!


平成19年より【昭和の日】という祝日になりました。


昭和のど真ん中に産まれた自分として、


今日は、昭和時代を懐かしみたいと思うのであります!


今日に限らずいつも懐かしんでる気がするけどね。。

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11月3日の文化の日が、明治天皇の誕生日で。


毎年「文化の日」には、皇居で文化の発展に功労のあった人々に

文化勲章の授与式が行われ、また、文化功労者および各種褒章の

受賞者の伝達式などが行われます。


それは分かるけど、大正天皇の誕生日はどこ行ったん?


不思議に思って調べてみました、そのまま引用します。


大正天皇の在位中は「天長節(天皇誕生日)」はありました。即位の年と翌年は8月31日に式典が行なわれましたが、上の方が書かれているように、酷暑のため10月31日にずらして実施されることになります。

その死後に誕生日や天長節が祝日になることはありませんでした。その理由としては、亡くなった1920年代半ばという時期の特殊性が考えられます。

この時代は、第一次世界大戦中のロシア革命やドイツ革命の余波でヨーロッパ各国でも君主制が動揺し、国内でも「大正デモクラシー」や労働運動・小作争議の高まりで「革命」の危機感があった時代だったのです。

そんな時代に天皇が病弱であることは、天皇の権威を失墜させかねないし、国内の統治秩序にも問題が生まれかねません。

そこで政府は、能力のある若き皇太子を「摂政」という形で前面に押し出し、大正天皇の死後は新天皇に人々の関心を向かせることで、すみやかに天皇のイメージアップをはかろうとしたようです。そのため、「大正」という時代を忘却させるためにも、記念日の類を設定しなかったと考えられます。
なお、天皇家の家内行事である宮中祭祀には「大正天皇例祭」はあります。


なるほど、そういうことなのか・・


歴史は調べるといろんな発見があって面白いですね。


昭和は激動の時代と言われますが、

大きな戦争から敗戦。

そこから目覚ましい復興をして、

高度経済成長を経てバブル時代と、

今考えるとジェットコースター見たいな時代だねぇ。


そんな昭和の初期の戦時中には神様的な存在で、

多くの若き国民が天皇陛下の為にと、命を捧げて逝った。


そんな歴史を聞いた子供時代の私は、

昭和天皇に漠然と悪いイメージを抱いていました。

しかし、正しく見てみると、戦争を起こしたのは、

天皇陛下の意志ではなく、その他の日本軍を率いた、

人たちであったことが分りました。


この昭和の日に、正しい歴史を認識出来ればと思い、

以下に昭和天皇の人柄が分かるエピソードを引用しました。


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1989年1月7日。昭和天皇が崩御された日は今でも多くの人の記憶の中に残っているのではないでしょうか?テレビでは一斉に特別番組が組まれ、夜は街から灯りが消えたのを覚えています。

昭和天皇は、1901年4月29日に誕生しました。「心身健康第一、天性をまげない、ものに恐れず人を尊ぶ、わがままな癖をつけない」といった幼児教育を受けたといいます。学習院初等科に入ると日露戦争の英雄、乃木希典に薫陶を受けました。

昭和天皇のお人がらを知る為のエピソードがあります。1931年11月、鹿児島から軍艦に乗って帰京される際、船の上から昭和天皇がひとり挙手の礼を暗い海に向かってしているのをお付の人が目にします。いったい、誰に向かって礼をされているのだろう?と海の方を眺めると岸の辺りに住民が昭和天皇をお見送りする為に焚いたと思われるかがり火が・・・。その思いに答える為、昭和天皇は、ひとり答礼を彼らに向かいされていたのです。それを知ったお付きの人は、慌てて軍艦からサーチライトを点灯させ海岸を照らし出したといいます。

また、4人の内親王が続いて生まれ、なかなか男子に恵まれなかった昭和天皇に重臣たちから側室を進められたことがあったといいます。しかし、昭和天皇は、「それなら秩父宮が継げばいいではないか」と不機嫌な口調で答え、皇后への思いやりを見せたというエピソードもあります。

昭和天皇が即位された時期は、日本が大きく変化していく時でもありました。後に天皇は、「自分の意を貫いたのは2.26事件太平洋戦争終戦の時だけだったと語っています。

2.26事件の際は、事件により混乱状態にあった軍や政府の中、昭和天皇は「自ら近衛師団を率いて現地に向かう」といい事件の急速な解決を急ぎました。また、太平洋戦争の終戦時も一部の反対を押し切ってポツダム宣言の受諾を決断されました。

「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」

当時、昭和天皇がよまれた歌です。

戦後、日本にはGHQのマッカーサーがやってきました。マッカーサーは、当初、天皇は戦争犯罪者として起訴されないよう自分の保守を始めるのではないか?と不安だったといいます。しかし、昭和天皇に会ったマッカーサーは逆に心を動かされることになります。

9月27日。ただひとりの通訳を連れ、マッカーサーの元を訪ねられた昭和天皇。マッカーサーは、パイプを加えたままソファーから立ち上がろうともしなかったといいます。「どうせ命乞いに来たのだろう。」と思っていたのでしょう。

しかし、昭和天皇は、マッカーサーと挨拶を終えるとこう伝えました。

「私は、戦争の全責任を負う者として、あなたの国の裁決にすべてをゆだねます。(つまり、極刑を言い渡されても受けるということです。)ただ、国民は住む家もなく、着る物も不自由し、食べるのもままならぬ状態です。どうか、この国民の衣食住のみはご高配賜れますように・・・」

この死を伴うほどの責任を引き受け、国民を思いやる態度にマッカーサーは骨の髄まで揺り動かされたと後に語っています。

敗戦後は、日本各地を巡幸され復興に励む人々と親しく言葉を交わされた昭和天皇。

普通、世界の国では、戦争に負けてしまえば敗戦国の王は、殺されるか、国外追放されるのが一般的です。それなのに日本の天皇は、戦後たいしたお供も付けずに無防備なまま各地を巡幸している。これは、他の国から見るとかなり驚きであったようです。

激動する昭和という時代の中、国民とともに歩まれた昭和天皇。学校では、深く伝えることもなくなったように感じますが、今一度、昭和天皇のエピソードなど調べ、知っておくことも日本人として大切なように思います。


長い記事になりましたが、

読んでいただきありがとうございました。