やっと心が落ち着いたので、感謝の気持ちと共に

ここに記します。

 

聡明で、美しく、少女のように可愛らしく、強く、そして穏やかな私の大好きな大好きな祖母、加藤ナミが、

2020年4月14日(火)16:20、107歳で天国に召されました。

 



4/16にお通夜

4/17に告別式にて、祖母は現在49日の旅に出ております。

 

今週末、49日の旅から帰った祖母をお迎えし

祖父が眠るお墓に、納骨をいたします。

 

 

父方の祖母は、ずっと東京府中市で90歳まで東京で一人暮らし。

90歳過ぎてから、長男である父が私の実家、横須賀に呼び、

100歳過ぎてから、車で10分程の特別養護老人ホームにて

余生を過ごしました。

 

実家の横須賀から祖母のいる府中は遠く、車で2時間弱。

その為、年に3回多くて5回、くらいしか会えていませんでした。

 

祖母も横須賀に来ることは5回もなかったかもしれません。

 

 

なので、実は私おばあちゃん子ではないのです

 

 

親戚一同揃う新年会等では、長男の嫁である母がキッチンに立ち

祖母は皆と共にテーブルにいる、という文化だったので、

(恐らく祖父が早くに他界した為、その家主として皆を迎えていたのでしょう)

祖母が作るご飯も、そんな食べた事ありません笑

 

覚えているのは、おはぎを作ってくれたこと

でも、小さい頃和菓子が苦手で食べられず。。。

 

そして、茶道と華道の師範だった祖母

 

そのお点前を拝見する事も、お抹茶をいただく事も出来ず、

お花を活けるところも見れず。。。残念無念。。。

 

 

でも、いつも変わらぬ凛とした佇まい、

そして優しい笑顔と穏やかな口調は

私の心を和ませてくれていました。

 

一人で行動する事も大好きで、

バス旅行にも年齢査証して参加していた祖母w

 

そんな病気とは無縁の健康な祖母でしたが、

90歳過ぎてから、横須賀の我が家にやってきました。

 

父母兄私と家族4人、それぞれ自分の時間が確立され、忙しく過ごす中、ゆったりした時間が流れている祖母が来る事になった

 

それは、生活リズムの狂いが半端なく

家族の戸惑いはなかなかのものでした。

 

その時私は横須賀から都内に毎日通勤、週2回はベリーダンス、そして週末はまた都内へ遊びに行く、という生活

 

祖母も少し痴呆が入っていた為

お話もスムーズに出来ないため相手をする時間がなく、一時期、私は祖母に対してそっけなく接していました。

 

父は元々大変優しいので、また長男としての責任を感じ、祖母のお世話はめっぽう父が対応

 

母は基本関わらず、兄は仕事でもっと家にいない

 

そんな日々が過ぎ、

遂に祖母が特別養護老人ホームに入居する事となりました。

 

祖母が家にいなくなり、それがきっかけだったと思います。

家からも近かった為、私は節目節目で祖母がいるホームに行くようになりました。

 

最初の頃は、会話も出来てましたが、耳が遠くなり筆談に変わり、発する言葉はだんだんと単語になり、表情も乏しくなってきました。

 

それでも、私が行くと喜んでくれているのが分かるんです。

なんですかね、これが「血のつながり」という事だと思います。

 

特に、私の長い髪の毛が大好きで、

髪をほどくと 「わぁ!」っと感激して触ってくれました。

 

この反応は、祖母と最後に会った今年の年始のご挨拶の時も、ありました。



 

 

 

忘れもしない3年前の2017年、

104歳の祖母はホームで転び、大腿骨を骨折してしまいました。

ボルトを入れる手術をし、入院。

退院しても、それまで杖をついて歩く事が出来た祖母は、車いす生活になりました。

 

痛い、動けない、辛い、という苦しみを104歳で経験した祖母は、1年くらい 「助けて」 という言葉を何回も繰り返すようになりました。

 

そして、その手術と入院で一気に痴呆が進み、出てくる言葉は単語、そして表情はなくなっていました。

 

104歳の口から 「助けて」 という言葉を何回も聞く事は、

本当に辛かったですし、104歳の祖母に未だ苦しみを与えるの?と神様に怒りを覚えました。

 

そんな祖母を見て、私は祖母が私達に身体を張って何かを示してくれているのではないか、と思うようになりました。

それは、祖母の意志ではなく、祖母を介して誰かが示しているような、大切な、何か。

 

祖母は本当に強い人だったので、それに選ばれてしまった気がします。

 

祖母が身体を呈して示してくれたその 「何か」 は、未だはっきりと分かりません。

 

でも、私が以後生きていく日々の中で、いつか分かるようになる気がします。

 

 

そうポジティブに思えるのは、直近1年はすっかり穏やかになり、あの苦しみはなかったかのような落ち着きを見せてくれたから。

 

もう最強としか思えません笑

(104歳の大腿骨にボルト入れる手術も、時間通り問題なく終わったという)

 


 

 

そんな祖母がホームで暮らした10年程の間に、

私の中で、祖母はかけがえのない存在になっていました。

 

祖母に会いに行ってお話する事は、一緒に暮らしていた時期にそっけなくしてしまった後悔を、埋めるためのエゴだったかもしれません。

 

それでも、祖母はいつも穏やかに優しく、温かく迎えてくれました。

その祖母の出す愛のオーラに包まれる時間は、私の後悔と謝罪を少しづつ浄化してくれました。

 

この経緯から、祖母は私の絶対的な女神様となりました。

 

こんなに優しく美しい女性は今まで会った事ありませんし、今後もいないであろう、という程に。

 

だから、私が祖母みたいになれれば良いな、と思うようになりました。

 

道のりは険しく難しいですが、

私はなんといってもおばあちゃんの孫ですから!

 

可能性はゼロではないと信じ、祖母の生きざまを引き継いでいきたいと思います。

 

 

そろそろ、祖母の49日の旅が終わります。

祖父が亡くなったのが約35年前。

祖父と会えたでしょうか。

 

あの世で久しぶりに再会した2人は、どんな風なのでしょうか。

寡黙な祖父でしたので、きっと恥じらいながらも、

言葉少な目に祖母の手をそっと繋ぎ、

静かに離れていた35年間の祖母の話しを、

ゆっくりと聞いていることでしょう。


なんだか微笑ましい光景が目に浮かびます。


私は、もう温かい祖母の手を握ってお話しすることが出来ないけれど、その分祖父がお話相手になってくれている事でしょう。

 

祖母の107年間という今世のお務めは素晴らしく、私からはご苦労様と労う気持ちがいっぱいです。


勿論とても寂しいですが、今は祖母への感謝と愛が溢れていて、涙もまだまだ出ますが、直ぐ笑顔に変わります。
 

 

SNS上でもナミさんファンが多く、孫としては鼻が高いですキラキラ


私の強く美しく可愛いおばあちゃんは、

愛溢れる素晴らしい誇り高き女性でした。

おばあちゃん、本当に本当に有難う。

大好き!!!キラキラ

 

ナミおばあちゃんの若かりし頃の様子が分かるブログはこちら → https://ayla.exblog.jp/16002984/

才色兼備で銀座三越の呉服屋に就職と、実はバリキャラでしたキラキラ