昨日のグリーフ講座では
寄り添いのワークをしました


亡くした大切な誰かへの気持ちを語る

聴く側は、話す人の言葉や仕草を
真似することで感情に寄り添う

というものです



ペアで話す側・聴く側を交互に行い
わたしは最初に話す側になりました

大切な誰か…衣都への気持ちを
まるで手紙を読むかのように話します


ワークが始まると
何を伝えたいのか、すぐには出てこなくて
しばらく無言の時間が続きました

そしてそれから、一言目
口から出た、心のままの言葉が


お腹の中で10ヶ月育ててあげられなくてごめん




あんなに可愛い娘を早産してしまった
そのせいで亡くなってしまった

という罪悪感や自責の念が
想像以上に根深かったんだと気付きました


今まで、日記やブログに
『衣都、ごめんね』と書くことはありましたが

口に出して
ごめんね、と言うことかできませんでした

昨日のワークで、初めて口にして
私が娘を殺してしまったんだ、という
罪悪感や自責の念を抱えていたことに
やっと向き合えはじめた気がします



生まれて一度だけ聴かせてくれた声
ぎゅっと指を握ってくれた小さな手
母乳を上手に吸おうとする口
吸引チューブを嫌がって眉間にできる皺
わたしがトントンすると穏やかになる表情
抱っこさせてもらったときの、重み以上の重み
腕の中にいるときのあたたかさ

衣都はたくさんの姿を思い出を残してくれました

でも、もっともっと色んな姿を見たかった

開いた目を、瞳を見たかった
どんな風に笑うのか、笑顔を見たかった
怒ってギャン泣きする姿を見たかった
寝返りする姿、ハイハイする姿を見たかった
ママ、って呼んでほしかった

ずっとそばにいて欲しかった
未来を一緒に歩きたかった

その未来を、衣都の命を
わたしの身体が奪ってしまった
と感じてしまいます


多くの人は、あなたのせいじゃないよ
と言ってくれます

確かに、実際に
わたしが娘を殺したわけではありません

でも、お腹の中で10ヶ月育てられていたら
正期産で産んであげられていたら
衣都は今も元気に生きていたかもしれない

つい、そう考えてしまいます
きっとこの感情は、一生消えないし
一生抱えて生きていくのでしょう

その覚悟を、これから少しずつでも
していかないといけないんだなと思います




そしてもうひとつ気付いたこと

誰かに何かを話す時には、説明文が入ります
こんなことがあって、とか
この人にこう言われてこう思った、とか

自分の感情を話すときですらも
何かを説明する言葉が入ることが多いです


特にわたしは、その傾向が強くて
自分に起こった出来事や感情を
一歩引いて見て冷静に分析する自分が常にいます

そのおかげか
話がとても分かりやすいとよく言われます

でもそれは、逆に言えば
常に自分の感情を理論的・客観的に処理して
コントロール下においているということです

自分の感情を解放してしまうこと
そしてその時の自分がどうなるのかという不安
そこから立ち直れなくなるかもしれない恐怖
が人一倍、強かったんだと思います


昨日のワークでは初めて、
説明する言葉というものが一切ない
衣都へのありのままの気持ちを曝け出しました

自分の感情を、衣都に直接語りかけました


そうして感情を解放することで
自分では今まで気付かなかった感情を
目の前にどんと突きつけられました

一晩たった今も
その揺らぎを引きずっています
昨日、今日と、久々に大号泣しました

でも、このワークは1人では到底出来ないし
グリーフを一緒に学んでいる仲間がいて
その人たちとの温かな関係性があって
初めて行えて、得ることが出来た学びでした

そう考えると
揺らぎまくってしんどいけれど
このグリーフの講座を受けて
仲間とたくさんの学びを得られて
本当によかったし、幸せです


来週の講座は、ペリネイタル・ロス
きっと今まで以上に、しんどいし
揺らいで泣いて、きついだろけれど
なんとか、頑張ってみようと思います