コンピュータ書の版元エクスメディアが倒産したときには、特に驚きはなかった。むしろ、危ないという噂が何年も続いていたから、油断していたタイミングで、しまった!という感じだった(もっと返品しとけばよかった)。
 コンピュータ書はずっと低迷していて、出版社はどこも、実用書やビジネス書、新書へと新規開拓を続けていて、もはやコンピュータ書だけではやっていけない状況になっている。とくにアプリケーション(word,excel)の本は、最盛期から考えると驚くほど売れていない。そこを主軸としていたエクスメディアが倒れるのは、そんなに不思議なことではない。
 が、「超図解」というブランドが売れなかったのは、驚きだった。売れないジャンルになったとはいえ、誰もが知っている名前だし、本作りのノウハウだってあるものだ。他の出版社が買ってもいいのではないか、そう思うし、噂によれば、実際に買い取ってもらうように画策していたようだ。しかしながら、結果は完全に廃業だった。知名度があってもダメ。ほんとに売れなくなった。ということなのだろう。

 しかし、驚きはむしろ、山海堂の倒産だった。ブログなどを覗くと、F1やラリーといった車関係で惜しむ声が大きい。実用書と、土木の専門書の版元として、いわゆる新興の出版社というイメージのエクスメディアよりも、しっかりした版元だというイメージを持っていた(あくまで私個人のイメージですが)。

 コンピュータ書が不振な理由はわかる。WindowsVistaだ。パソコンも新OSも売れていない。今年のはじめに、鳴り物入りで出たものの売れなくて「いやあ、夏のボーナスでしょう」といって、夏をすぎても売れず、年末になった今でも動きは鈍い。WordやExcelは学校で習うために入門書を必要とする若者はほとんどいなくなったし、学校や職場で古いバージョンのままなのに、わざわざ新しいバージョンを使いたいという人もいない。Webで検索なんて、いまやおばさん、おじさん、でもできる。いま、できない人というのは、そもそもパソコンなんて必要のない生活をしている優雅な人だけだ。
 けれども、出版社としてはVista&Office 2007用の新刊を出さないわけにはいかない。そして、どれもが不発に終わり、耐えきれないところがでてきた。これはわかる。

 けれども、山海堂はわからない。
 というか、山海堂がダメとなれば、他もダメなんじゃないか。

 出版社は新刊を出すと取次から金をもらう。もらった金で新しい本を作り出すとまた金をもらう。しかし、売れなくて返品されると、取次にお金を払う。理屈の上では、新刊を出し続けている限りは、本が多少売れなくてもなんとか、食いつないでいける。

 ところが、おそらく、取次が新刊を受け取らなくなった。これ以上、売れない本を出版し、返品を許すことができなくなってきた。山海堂は、その端緒だという気がする。もし、そうだとするなら、来年は、大手はともかく、準大手的な出版社の倒産が相次ぐだろう。(ちなみに零細な出版社は、ニュースにならないぐらいどんどん潰れている)

 エクスメディアも山海堂も、取次は書店からの返品をほとんど受け付けていない(一部、委託期間のみ受けている)。不良在庫を抱え、一部書店では割引販売も行われているという。何年か前に騒がれて消えていった、再販制度見直しが、ここにきて無理矢理始まりそうな気配だ。

 そして、それと呼応するように、おそらく日本一の書店である、Amazonの新刊の発売日が、リアルな書店よりも一日二日早くなった。アマゾンでは、既に発売されているのに、書店にはまだ商品が来ていないという事態が発生しているのだ。これも推測だが、取次を通さずに、直接、仕入れていると考えられる。まさかアマゾンが各出版社を回っているとは思えない。とすれば、出版社がAmazonに直接納入しているのだろう。そうなると、Amazonというのは取次+小売となるわけで、これが日本一の取次となることも、不可能ではない(噂では今でも書店がAmazonから仕入れるということも、洋書などの場合あるようだ)

 Amazonの商品管理&物流は、もはや日本の取次を超えつつある。私は日本の取次はかなり優秀だと思うが、即日、各家庭へ届けるAmazonに対しては、勝っているとはいえないだろう。大手の取次は、大手の出版社が株主となり、非常に有利な形で、半独占的な商売をしてきた。けれども大手出版社のドル箱だったコミックが低迷し、「カンフル剤」だったアニメも視聴率がとれなくなってきている。
 そこにきて、Amazonが日本の出版で一番になってしまったら……、さて、一ツ橋グループや音羽グループはどうしますかね。

 イミダス、知恵蔵が今年は発刊されず、Wikipediaや電子辞書がそれにとって変わった。何度も普及に失敗している電子ブックも、すでに若者だけでなく中高年にも普及しているNintendo DSが進出し、ケイタイ小説がベストセラーを独占している。

 この20年ほど、新刊が山のように書店に配本され、大量に返品されるという状況が続いてきた。出版点数をどんどん増やすことで、なんとか売上を維持してきた出版界が、ここにきて、バブルとも言える状況を維持できなくなってきた。

 いつかくると思ってきたが、とうとうきたな。というのが私の感想だ。

 マスコミといって、就職では華のようなイメージがあるかもしれないが、出版社も書店もほとんどが零細。大手といっても世間では中小企業の規模でしかない。

 さて、これからどうなっていくのか、どうすべきなのか。次回はそれを考えてみよう(いつになるのかわからないけどね)


「ちょっと、あのね、○○関係の本を探してるんだけど、どこかしら、ああ、これね、ううん。ああそうね。でも、ああ、そういうのじゃなくてね。いま、○○の××の△△について知りたいんだけど、ちょっとこういうのじゃなくて、もっと詳しいのがいいのよ。うーん。そうねそう、もっとちがうのない、どこみればいい?  ……あ、ここね、これだけ? ああ、そう、そうこれかな、ちょっとみてるわ。どうもありがとう。助かったわ。ちょっとみてみる。ここね、ああそういうことね」
「ああ、さっきの教えてもらったのだけど、あのね、○○関係だからね。ほかにはないわね。これとてもいいから買おうかと思うんだけど、どっちがいいかしらね。でも、ちょっとね。ほかにあればとおもってね。これは? ああ、ないの? あ、そう。でもいまね、○○関係の本探しているからね、さっき教えてもらって、とても助かったんだけど、すごく参考になったんだけども、××の△△について知りたいんだけど、ああ、そう。どうしようかな。こっちがいいと思う? うーん。えーっと。ちょっとまってね。ごめんなさいね。でもね。これとてもきれいだから、こっちにしようかと思うんだけど、でもね、えーっとね……」

このような感じで、ずっと考えていることを全部、話しかけてくる人がいる。基本的には、本を探しているわけだけど、ずっと相手をさせられてしまうような人だ。ほとんどの人は、店員に話しかけたりしないし、話しかけたとしても、できるだけ、短い時間で済まそうとするものだが、ときどき、人を使いの荒い人というのがやってくる。

結局、上記のようなお客様は、悩んだ末に、1万円分購入された。
「領収書おねがいね」

やっぱり。

人使いの荒いお客様というのは、たいてい、領収書だ。つまり、経営者かその類だ。

そして、そういう人は、とにかくハイパーアクティブだ。よく言えば、活動的だが、直訳すれば「多動」。
一種の障害の名前でもある。

すべての経営者がそうだとはいわないが、そういう人が多いのも確か。
せわしなく動き、人にいろいろ訊いたり、頼んだりするのがうまい。

ビジネス書では「起業」がひとつの流行のようなところがあるが、
どこかの本で「経営者」というのは、会社のことを営業から経理から、人に気をつかうことまで、
なにからなにまで一人で休みもない激務に耐えられる、というよりもそういう激務が好きである
という特殊な才能が必要なので、普通の人はやめておいたいいということが
書いてあったけど、たしかしそうだろうな、と、
ハイパーな人の接客をすると思う。

前の店で、やっぱりそういう人がいて、「Kさん」といえば、みんな知っているというお得意さんがいた。
「○○の本、何冊かみつくろっといて、あとで行くから」というような電話がしょっちゅうかかってくるので
(内容で本を探すというのは、かなり大変で時間も労力も気も使うのだ)
Kさん用のおとりおき棚というのが用意されていたぐらいだ。

ただし、買い方もすごくって、こっちが用意した本を、見もしないで、じゃあ、全部ちょうだい。といって何万円も
買っていく。当然領収書。ときどき、秘書みたいな人が買いにくることもあった。やっぱり経営者だったが、
それなのに、大学にも通っていたそうだ。50歳ぐらいのおじさんだった。

買ってくれるのはありがたいけれども、この人につかまると、時間がとられてしまうので、
正直、迷惑だなあとおもってはいたのですが、しかし、

この人に心底関心したのは、あるクリスマスの日のこと。
Kさんから、お店に大量のドーナツが届けられたのです。
みんなで召し上がってください。

すばらしい。

人を使うツボをしっているんだなあ、といたく関心し、ありがたく、ドーナツをいただいきました。

たしかに、大変なお客様だけど、まあしゃーないね、みたいな感じで、
いまどき、珍しいお得意さんっていう言葉の似合うお客様でした。



昔ちょっとだけ雑誌の担当をしたことがある。雑誌の担当というのは、雑誌を覚えなくてはいけない。
たとえば
JJ、CanCam、ViVi、Ray
というのが、毎月23日に出る女性誌のひとつのグループだった。いま、この雑誌がどうなっているのかはよくわからないが、20代前半をターゲットにしたまさしく女性誌というのがこの4誌だった。あと、28日に発売のものとか、12日発売のものとかいろいろありますが。

このところ雑誌からは遠いところを担当していることもあって、最近の動向についてはよく知りません。雑誌というのは世の中の流行がわかって楽しいんですけどね。あとマニアックな雑誌とかね。

さて、このブログにはじめてコメントをしてくれたsumireさんのブログに
CanCan vs JJというエントリーがあった。
http://ameblo.jp/sumirenikki/entry-10011101444.html

JJよりもCanCamが売れているという。

実のところ、私の働く店でも、CanCamはすごい売れで、文藝春秋(一番売れている月刊雑誌)に並ぶ勢いなのだ。同ジャンルでは、ViViが二位なのだが、それでもCanCamの半分しか数がはけない。全然違うのだ。

で、その謎はというと、こちらの日記を
エロ本編集者の憂鬱と希望
http://d.hatena.ne.jp/erohen/20060228
『そしてナンバーワンのグラビア雑誌を問われると、自信満々に「今、最強のグラビア雑誌はコレよ!『CanCam』!山田優とエビちゃんで一人勝ちだもの。もはやウチでは『CanCam』購読者が男女半々。すごいことですよ」と答える。』

おお、ということは、これは飯田橋界隈だけのはなしでなく、全国的なことのようだ。
実際問題として、コギャルが流行った時に、eggという雑誌なんか、下手なエロ本よりコギャルの写真満載でしたからね。脱いでたり絡んでたりってことはなかったけど、近い写真もあったし。

そういえば、写真集を担当していた時、何が売れるか、というのをいろいろ試していたのだが、叶恭子みたいなビッグネームは別として、日常的に売れるのは、「あまり有名でないこれから有名になりそうなアイドル予備軍」の写真集だった。ようするに、マニアがいて、青田刈りするわけですね。露骨なエロの写真集はあんまり売れない。しかも! そのとき、私の働く店では写真集を雑誌と一緒にならべていたのだが、そうすると、後ろの棚の表紙とかが、前の本に隠されてしまうわけですが、「顔が隠れても売れるけど、名前が隠れたら売れなくなる」んです。名前なんですよね。女の子のかわいらしさとか、写真のきれいさとかではないのです。なんか人間の業を感じました(そこの店だけの話かもしれないけど)。

上のsumireさんのブログでは
『知り合いの男子にいわせれば、
「CanCan のモデルはちょっとワルでカッコいい。 JJのモデルは素朴で純情な感じ。」
だそうだ。』

ということで、「ちょっとワルでカッコいい」女の子が、実際に男の子にモテているわけですな!(といってもグラビアオタクなのかもしれないけど)

まあ、私個人にはあまり関係のある話ではないですがねえ。

あ、そういえば、JJって女性自身の略だっていう噂は本当なんでしょうか?
課題をしてみた。その答え:
「台所に残ってあるものみんな出して、きれいに並べるの。ハム、卵、パセリ、キャベツ、ほうれんそう……お皿ひとつひとつに、色の組み合わせとか考えて。そして、さっと並べるだけ。手間もいらないし、簡単だし、ちっともおいしくないけど。でも、テーブルの上はとても賑やかできれい。なんだか、とても御馳走で、ぜいたくって感じ。」

米光一成氏の「ブログ文書術」
http://blog.excite.co.jp/blog-jutsu/1582135/
課題:センテンスを分けて、読みやすくしてみよう。
「お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。」



お皿はひとつじゃなくて、一枚だろうが。さらにいえば、賑やか、華麗、贅沢な御馳走と馬から落馬みたいに同じような言葉を重ねている。あと、経済だし、という言い方は古い。節約できるし、とかだろうね。これが女生徒ならば、手際よく並べて「出すのであって」とはもういわないだろうな。ふつうなら「出して」だろう。ちょっとエロいな。そうすると、一切合切も古い表現だ。こんなこともういわないだろうから。

ちなみに主語がない。わたしでしょうか。一文を単純に短くするのは、マルを打てばいいだけだからそんなに難しくない。

「皿一枚一枚に、それぞれ美しく配合させる。ハム。卵。パセリ。キャベツ。ほうれんそう。台所に残ってあるものみんな。いろとりどりに手際よく並べて出す。手間もかからない。簡単。ちっともおいしくないよ。でも食卓はずいぶん賑やかになる。何だか、とても贅沢に見える。」

 わかりやすいかどうかは微妙だな。
 もっと女生徒というか女子高生みたいな言い方にしてみる.ブログというのは口語体だから。

「きれいに並べるの。ハム、卵、パセリ、キャベツ、ほうれんそう、台所に残ってあるものみんな出して、色の組み合わせとか考えて、いろんなお皿にのせて、さっと並べる。手間もかからないし、簡単。ちっともおいしくないけど、食卓は賑やかになるよ。とても贅沢な御馳走って感じ。」

 課題の文章がわかりにくいのは、長いからというのもあるけど、きっと、古い表現があるからじゃないかなあ。あと、羅列は短くできないから、課題としては反則と思う。まあ、ながくたっていいじゃないか、ということを言いたいのはよくわかるんだけど。

 もうちょっとできるだけ原文に捕われずに書いてみる。わかりやすくを目標に。そして、この文章のもつちょっと狂った感じとか、寂しげな感じとかも織り込んでみたい。

というわけで、こうなりました。(以下冒頭と同じ)
「台所に残ってあるものみんな出して、きれいに並べるの。ハム、卵、パセリ、キャベツ、ほうれんそう……お皿ひとつひとつに、色の組み合わせとか考えて。そして、さっと並べるだけ。手間もいらないし、簡単だし、ちっともおいしくないけど。でも、テーブルの上はとても賑やかできれい。なんだか、とても御馳走で、ぜいたくって感じ。」

いかが?


 私はときどきいろいろなことを考えます。考えることが趣味ともいえます。もちろん誰しも考えることはするでしょうが、私の場合、考えたからといって特段役に立つとは思えないことを考えてしまうのです。

 たとえば、私は今,本屋に勤めているわけですが、出版業界というのは明らかに過剰な状態にあります。単純にいえば、新しい本が次々に発行され、どんどん絶版(正確には品切れ重版未定)になっていくという状況です。みんなが馬車馬のように本を作り、それをどんどん書店にいれ、そのうち売れるのは一握り。しかも、売れたとなれば、よく似た二匹目三匹目のドジョウを狙うというのが常です。出版点数は十年で倍増し、現在も増え続けています。けれども、一方で、携帯電話やインターネットの発達で、書籍や雑誌が果たしていた役割はお株を奪われています。電車にのれば、携帯電話でメールを打っている人の多さに目を見張るはずです。以前なら、その手に雑誌や文庫があったところです。

 もし出版社が半分になっても誰も困らないだろう。と私は思います。出版点数が減っても、寡占状態になり情報がうまく伝わらなくなったり、不便になることもないでしょう。ある程度の競争もあるでしょうし、本屋が淋しくなってしまうこともないでしょう。

 ただ、出版社で働く人は困ります。半分にするとして、半分になってしまったら、その半分の人は仕事を失ってしまうからです。

 さて、ここからほとんど意味のない想像を進めていきます。

 むりやり出版社を半分にしてしまったらどうなるでしょうか?

 残った出版社はライバルの出版社がなくなったおかげで、収益が増えるはずです。
 であれば、そこで増えた分を、なくなった出版社の人に分け与えるのです。こうしてもほとんど何も変わりません。人々が本を買う金額が同じであれば、残った出版社の利益も変わらず、なくなった出版社で失業した人も給料が同じだけもらえます。ただ、出版社を半分にして出版点数を半分にしただけです。(そんなに簡単なわけがないのは充分承知です)

 ここで、たぶん一番納得のいかないことは、働かない人がお金をもらえることでしょう。そんなことはありえないと。けれども、実際にはそういう人がいます。

 たとえば、専業主婦。

 というと、主婦の方に怒られるでしょうが、共働きの私からみるとやはり専業主婦ができるというのは一種のステイタスに思うのです。そして、暇と金がある人が社会のトレンドを動かしているのも一つの事実です。(私は貧乏なので、暇はなく、従って金を使うことも少なく、結果的に、メーカーからは見向きもされず、その結果、雑誌やテレビも僕の欲望を喚起するようなニュースを流さず、そのため私はいま、あまりほしいものがないという状態なのです)

 働かなくなった元出版社の人は、給料は同額もらえるので、暇も金もあるので、当然金を使います。するとどうでしょう! 景気はとても良くなるのではありませんか!

 働かない人に金をあげると、景気は回復するんじゃないか。
 この考え方は、そんなにまちがっていません。なぜかというと、ワークシェアリングという考え方(一人当たりの働く時間を減らして、たくさんの人が働けるようにしよう)とつながっているからです。

 どこかで聞いた話では、原始的な生活をする人(無文字で狩猟生活している人)は、一日に4時間しか働かないそうです。インターネットだの、ワンセグだの、携帯だのと騒いでいる人達は、いったい一日に何時間働いているというのでしょうか。

 原始的な生活をしている人の労働時間がなぜ4時間ですむかというと、食うため以外の仕事をほとんどしていないからでしょう。そう考えると、インターネットも、ワンセグも、携帯も、TVも雑誌も本も、みんな必要なことではないわけです。みんな遊びだと。もちろん、それは仕事だ。やらなきゃおまんまの食い上げだ。と働いている人はいうかもしれません。でも、それは、なぜなんでしょうね。一生懸命働かないと、ライバルに蹴落とされるから。でも、それはほとんど無意味な遊びの競争をしているだけじゃないかと、考えてみたらどうでしょう。

 どこかで読んだ本に、政治の問題はみな雇用の問題だといっていました。働けない人がいることが、究極の政治問題だというのです。インターネットやDVDレコーダーによって景気が回復したりするのは、それによって働き口が増えるからだと考えることができます。しかし、そのインターネットは必要なものでしょうか。百歩譲って必要だとして、いまインターネット関係で働く人がすべて必要でしょうか?

 半分はやめてもらって、悠々自適に暮らしてもらったほうがいいのではないでしょうか。

 もちろん、これは妄想にすぎないし、実現できるわけでもないでしょう。
 けれども、そういう可能性を考えてみることは、無意味ではないと思います。



 
あまり更新しないのも、なんなので、いわゆる日記もつけてみる。

今日はシャッターに当たり屋が出た。

閉店時間に近づくと、シャッターを閉める。店にはいくつもシャッターがあるので、店から出るのに必要ないところから閉めていく。
今日も、シャッターを閉めるために、カギを持って、スイッチを入れると、自動的にゴゴゴとシャッターが下りてくる。
と、そこに、おじさんがあらわれ、「ああもうこんな時間か」とわざとらしくつぶやきながら、シャッターの真下へ。
まるで、金属のシャッターが降りて来ていることに気がつかない様子で、真下に立ち止まっている。

不覚にも、シャッターのスイッチから離れていた私は、間一髪のところで、「すみません。お客さん。あぶないです」と背中を押して、なんとかシャッターに当てずにすんだ。
が!
「なんだおまえは! なにするんだ!」
ちょっと背中押しただけなんだけど。
で、一悶着。

酒臭い息のおじさんに、「すみませんまことにもうしわけありません」で防御。ただし、すべてにはあやまらないし、なにに対してあやまっているのかは明らかにしないで「すみませんもうしわけありませんでした」というのが、こういう場合の接客防御の基本。「おまえ、なんで俺をおしたんだ! 追い出そうとしたな!」という発言には、「すみません。危険だとおもいましたので」とちゃんと理由を言うし、こちらの非は限定的だということ、あくまでもお客様のためということを貫く。いくら謝っても正論は曲げない。そして、どんなことを言われても怒ったり感情的になったりしてはいけない。「なんだ、おまえ反論するのか」という言葉にも、ただただ「すみませんでした」と謝る。謝るけれども、お客様のいうとおりですなどとも言わない。

そうして、なんとか過ぎ去っていく。
あたまにシャッターがあたっていたら、誤ってはすまなかったかもしれない。下手をすれば、賠償金云々になった可能性もある。
「明日になったら」などと言っていたが、ようすからして、おそらく脅しだろう。

というわけで、なんとか無事終了。20分ほど帰宅が遅くなった。

このようにして、シャッター一つ閉めるのにも緊張感のある仕事なのです。
はあ。
今回のライブドアの事件で、わたしが一番に感じることは、新興の企業が刑事告発されたことではなく(そんなことよくあることだし、大手だってやってるとこがあるでしょう、きっと)、あるいは自民党やマスコミの豹変ぶりでもなく(つまりさんざん持ち上げておいて、落ちたらたたきまくるそのやり口;だけど、いつものことじゃないですか)、東証システムの脆弱さでもなく(っていうのもいままで指摘されていたわけでしょう)、ああ、これはIT革命だなあと思うのです。

つまり、デイトレーダーが東証のシステムにDDoS攻撃を意図せず仕掛けて、まんまとシステムを止めてしまったことにあるのです。東証は止まった次の日取引を400万件限度にしていました。ということは、東証を止めた日には400万件以上の取引が要求されたことになります。

その日の、日経の一面には、(おどろいたことに)デイトレーダーをバカにした「ろうばい売り」という表現がありました。たしかに、ライブドアが刑事告発されたぐらいで、ソフトバンクの株を売るなんていう人がいることには、ちょっとびっくりしますが、それにしたって、「ろうばい売り」なんていう言葉を、読者の何割かを閉めるデイトレーダーたちに向かって書いてしまう、日経の「ろうばい」ぶりが、わたしにはとても印象的でした。

東証が取引できなくなったのは、システムの脆弱さのせいにされているようですが、ほんとうのところは、そうではなく、本当は、「ライブドアが刑事告発されたぐらいで、ソフトバンクの株を売ってしまう」ようなデイトレーダーに株式市場が揺り動かされたことにあるのだと、思います。

株式市場というものは、つい20年ぐらいまえまでは、一般の人とは縁の遠いものでした。一部の投資家のもの、つまり語弊があることを承知でいえば、特権階級のものだったのです。それが、バブル期のマネーブームとその後のインターネットの普及で、一般の人にも株はどんどん身近になってきました。そして、今回、たった世間を騒がせたとはいえたった一企業の事件が、市場に大きく影響を与えてしまったのです。

それは特定の人達のものだった株式市場が、一般の人達のところへ降りて来たことを、意味するのではないか、とわたしは考えます。

これこそ「IT革命」ではないかと(すでに死語ですが)。

これから、さらに増え続けるデイトレーダーたちに、市場が振り回されていくこと、これまでの特権階級の人達は、いままでのようなやり方が通用しなくなること。テレビや雑誌、新聞がインターネット(メルマガやブログやポッドキャスティング)に追い上げられているように、株式市場もまた、インターネットによってその牙城が崩されようとしているのではないか。

わたしは、この事件はその象徴的な出来事なのだと、思えてなりません。

 最近iPodを買って、podcastingというものが思っていた以上に楽しいことに気がつきました。podcastingって、一般の人にメールが浸透したように広がっていくのではないか、みんなpodcastingの番組の話題でもちrきりになる、という気さえしています。

 とはいえ、現状はなかなか面白い番組がない。対応したばかりのVideoであればなおさらです。

 ところが、この「600秒」のビデオ、なんとなく登録して、ダウンロードして、電車で観てたのですが、まったく期待していなかったので、ちょっとびっくりしました。

 面白い。

 最後には、涙を必死にこらえていました。なにしろ電車の中ですから。おっさんがちっちゃいビデオみて泣いてたら、気持ち悪いです。ですが、泣きそうになった。最近、そういうことなかったのです。

 あんまり期待させない方がいいのかもしれませんが、是非観て下さい。一人で作ったというのも驚きです。そして、映画とマンガの両方の特徴を併せ持つこの作品をiPodで、電車の中で観たというのも、なにかしら偶然ではないものを感じます。パソコンの画面でも観ましたが、やはりこれはiPodが似合います。
 Video podcastingの未来をすごく感じさせてくれました。

 内容もそうですが、こういうタイミングで、こういう作品がでてくるというのが、時代が大きく変化しているきざしのように思えました。

 iPodがなくてもパソコンで観れますので、是非観て下さい。これがただで観れることはすごいことですよ。

 流行ものウォッチャーなら配信の形態を含め要チェック。
 もちろん、単におもしろいアニメ(映像)が観たい方にもおすすめです。

「600秒」 IN TOKYO FANTA
http://600sec.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_b4be.html
より
「600秒」は上映時間がジャスト10分間であるデジタル短編映像のコンペティション。若きクリエイターに新しい発表の場を設け、サポートするべく、東京ファンタ2003からスタートしたアワードです。」
「このブログの最初にお届けするのは今回のコンペティションで【泣き】部門で最優秀賞、同時に総合グランプリに輝いた井端義秀監督の作品『夏と空と僕らの未来』です。井端監督は24歳。たった一人でこの作品を作り上げました。丁寧に作られた美しい映像と繊細なストーリーで審査員の満場一致でグランプリに選ばれました。」

オライリーという出版社はアメリカの、コンピュータ書で、ちょっとカルトな人気がある出版社だ。動物のリアルな絵で、Unix系の解説本が代表だろうl。

この出版社が最近ヒットさせているシリーズが、Hacksシリーズ Amazon HacksやらExcel Hacksやら、日本人の書いたBlog Hacksやら、内容はちょっとマニアックなTips集なんだけど、やっぱり良くも悪くもオライリーらしい味がある。

で、こんどはとうとうコンピュータとは遠い(とはいえ若干関連もある)脳と心ときた。

基本的には、認知心理学のおもしろいところを、実験(専用のサイトにアクセスすると実験を体験できるらしい)をゲームのように楽しみながら、ちょっとずつ(Tips集なわけだ)解説した本。認知心理学の実験って、結構ゲームっぽいのだったりするわけですね。
教科書的でも、入門書的でもない。内容は高度かつ濃密。
類書が見当たらない。
心理学の解説書とかというレベルでなく、どのジャンルを見ても、類書がない。
すごく刺激的な本だ。

Tom Stafford (著), Matt Webb (著), 夏目 大(訳)「Mind hacks—実験で知る脳と心のシステム」オライリー/オーム社


最近のNTT出版は結構、気になる本、筋のいい本をだしている気がしている。
で、レゾナントというシリーズを刊行しはじめている。まあ、教養新書選書のたぐいだが、内田樹の「街場のアメリカ論」などヒットかつ面白い本をだしたりしている。

この本もそのレゾナントのひとつで、イギリスの研究所で働いている時に息子を、同じ場所にある学校に通わせた著者の体験談だ。と、おもったら、そうでもなくて、どちらかというと、個人的な体験の話は少なく、イギリスの教育制度や問題なんかを包括的に述べるほうが多い。とはいえ、著者の研究者らしい控えめで、できるかぎり偏見や思い込みをなくそうとする姿勢は好感がもてる。

まだ、半分しか読んでませんが。

小林章夫「教育とはーイギリスの学校から学ぶ」NTT出版