神社に夢見すぎ | なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま

過去から未来へと、連綿と続く時間の中で、その「中」である「今」を生きる。という言葉です。

なかいまを生きるとは、今この瞬間の自分自身を、全力で経験するということ。

ハムスターのちょびのすけに、常に全力で振り回されています(笑)

こんばんは

神社の家に生まれたあやです。


私はスピリチュアル界隈を知ってから、

「見える人、わかるひと」「霊能者」 的な人たちが、

「ここはパワースポットだ」
とか
「この神社の神様と話した。神の言葉はこう」

とか言ってるのを、違和感とともに、苦々しい思いで見てきました。


何故こんな気持ちを抱くのかわからずに、私はわかるひとたちに嫉妬してるのかな、と思っていたのですが。。。


いや違う。

私は昔から、
神的なエネルギーも
魔物的なエネルギーも
普通に感知しながら生きてきましたので。

改めて考えると、嫉妬する意味がわからない。
何故だろう、とつらつら考えていたのですが。

目を背け続けていたことに、いよいよ気づきました。


皆さん、神社に夢見すぎである。
私は、神に仕えるものが、そんな事を言ってはいけないと、今までその思いに蓋をして来ました。



今まで取り繕った綺麗事でかためて生きてきたので、神社のことも、テンプレート通りの事しか言いませんでしたけど、もう、現実を見ようと思います。



何故こんなことを書き出したのかと言うと、
スピリチュアルな人たちが有り難がって、意味を持たせることに違和感を覚えることが沢山あったからです。


私の腹のなかは

御神籤を木に結ぶな!木が傷む!
御神木に抱きつくな!木が傷む!
パワースポットを占拠して張り付くな!ウザい!
御朱印はスタンプラリーじゃねえ!
賽銭箱の前で祝詞を読むな!後がつかえる!
得意満面で神社ツアーしてるけど、なんでよりによってそこの神社選ぶ?


なんてことを、思っていました。



あなたが大切に結びつけたつもりでいる、木の枝に結ばれた御神籤は、淡々とむしりとって処分します。木がいたむから。

せっかくの神託持ち帰れよ。
せめて、わざわざ木に結ばないで、ちゃんと籤掛けにかけてくれよ。
とイラつきます。

いい気を沢山貰おうと、粘って場所を占拠しているひとを見て、そのごうつくばりな様子に呆れ顔です。

日本中にある多くの神社は、収入なんか無くて人が常駐できないほど困窮していて、神主や総代が先祖から受け継いだ大切な神社だからと身銭をきって費用持ち出しで管理してます。
でも、スピリチュアルに傾倒している方は、そんな普段人も居ないさぴれた神社には見向きもせずに、ガッポリお金が入る有名な神社をきゃぴきゃぴと有り難がって回っています。

収入がある神社には、収入がなければ奉仕しないような心持ちの人間も混ざります。
見えないものが見えるくせに、そう言うところは、「見えない」んだなぁ。ふ~ん、と思ってみています。



誤解しないで戴きたいのは、
有名で人が沢山来る神社でも、
清廉な神主が純粋な思いで守っているところは沢山あります。



これは神社の業界では、あまり考えられていないことですが、私見では
神社と言うのは、そこの神主の責任者(宮司)のエネルギーが大きく神威に影響していると見立てています。
宮司が変わると、神社のエネルギーは変わります。

どんな人が、守っているところなのか。
これは、どんな神様が祭られているのかよりも、むしろ大切だと私は感じています。
何故なら、例えば「稲荷神社」は、どこも同じ神様をお祭りしているからです。




昔、私の友だちがチャネリングを修得していて、私は沢山その子を頼ったときがありました。

あるとき、その子が急に
神様の言葉
を喋りだしました。
神様が私にこうして欲しいと言っている、と。

私は、その時黙って聞いていましたが、
「神様はこんなにべらべら喋るわけない」
と、内心懐疑的な気持ちで聞いていました。

そして、
神様に頼まれたこと
と、違うことをやりました。


後で友達は、私に
「なりすましにやられてた事が分かった」
と話してくれました。


これからは、取り繕わずに
地に足のついた、神社、の話をしていきたいと思います。