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Ayanosuke

中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

私は花の写真を撮ることが好きです。

誰に言われたわけでもなく、強い根を張り、美しく咲き誇る姿を見ると励まされます。

私は、花は生活にあってもなくても困らないものだと思います。

それでも神は花を造られた。

私たちが心豊かに生活を送るためだと思っています。

 

森羅万象を造った神は、私たちが日頃から心に留めていることを思いもよらないところで、メッセージを込めてくることがあります。

だからと言って、一つ一つの出来事が自分に都合が良かった悪かったかで一喜一憂するのは、よくありません。

 

そうではなくて、身の回りに起こる出来事を通して、どんなメッセージが込められているのかが分かるように、心のアンテナを張っておくことが大切です。

 

「やさしさに包まれたなら」(荒井由実 作詞・作曲・歌)という歌があります。

この詩の中に「目にうつるすべてのことはメッセージ」という言葉があります。

クリスチャンは、「目に映る全てのことが、神からのメッセージかもしれない」と心を敏感にして生きている人々なのです。

しかし、時にはメッセージを見失うこともあります。

 

神からのメッセージや導きは、ほとんどの場合、後から振り返って「あぁ、思えばあれが神の導きだったのか」と気付くものばかりです。

 

ところで、この詩は「小さい頃は神さまがいて」という言葉から始まりますが、私は誰の心の中にも、神はいると思います。

大人になるにつれて色々なしがらみに囚われて、小さい頃の感覚を失ってしまっているのではないかと思います。

 

自然の中に立ち、神の息吹を感じられれば、意味のある人生を、神が導いてくれているような面白さを味わいながら生きて行くことが出来るようになると思います。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹

長崎に聖母の騎士高校という高校があります。

この高校の創立者はポーランド人のカトリック司祭、マキシミリアノ・コルベ神父です。

若き日々を長崎に宣教に捧げ、帰国後はナチスドイツに捕らえられ、アウシュビッツ収容所で、聖書の「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)」を実行した方です。

 

誰でも自分のことは大切にします。

その自分と同じように自分以外の人も大切にしなさいということが、隣人を愛するということです。

いつも自分のことを犠牲にしなさい、と強制されているわけではありません。

自分のことを愛するのは良いことです。

隣人を愛するということは、自分のことを愛するように自分以外の人も愛することを示しています。

 

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)」

ただし、この言葉には危険な落とし穴もあります。

例えば、自分が麻薬が欲しいと思うなら、他人にも麻薬を勧めなさい、という風に捉えてしまうと大変なことになります。

 

自分が生きている社会の中で、何が良いものなのか、なにが悪いものなのかを見極める必要があります。

その上で、自分にとって本当に良いものを知っている人が、本当に良いものを人に与えることが出来るのです。

 

そういう意味でも、ちゃんと自分のことを愛せることが、自分以外の人を愛する条件になるのだと言えると思います。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹

茶室の入り口のことを、にじり口といいます。

にじり口の寸法は、60〜70cm四方で、人一人がやっと潜って入れる大きさです。

この茶室のにじり口は聖書の「狭き門」からきているという人もいます。

 

『狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。マタイ7:3~14』

この言葉は実際に門を通るのではなく、困難にぶつかった時や、物事を達成しようとする時に、どのような方法で、成し遂げるのかを示しています。

「広い門から入る」ということは、楽な方法や誰でもやれるような方法のことです。

「狭い門から入る」ということは、より困難な方法をとることから逃げずに、そして誰もが真似を出来ないような努力をすることを示しています。

 

初期のクリスチャンたちは厳しい迫害を受けながら活動を行なっていました。

誰もが通るような道を通るのではなく、誰も通らないような荊の道でなければ、真の目標に到達する道は開かれないと知っていたからです。

 

たとえ困難が多くても、自分が少数派になったとしても、あえてその「狭い門」を選び取る勇気を持ちなさい、と聖書は教えています。

 

ところで、お茶会は、お菓子を食べた後にお茶を頂きます。

一説には、教会で行われる聖餐式を模したものと言われています。

 

参考文献 信じる気持ち はじめてのキリスト教 富田 正樹