「すずめの戸締り」は公開当時一度見たのですが、
もう一度見た上で、やはり疑問に感じたことを書きたいと思います。




東日本大震災を、センチメンタルの演出の最高の材料として用いるのは如何なものなのか。


3月11日、という日付を見た瞬間、言い表せない嫌悪感のようなものが蠢いた。

悲劇の材料として、全く関係のない未来の映画の題材として用いられ、それによって人々の感動を誘うなんて、商材になっているのと何が違うのか。


東日本大震災の悲劇の記録を何度も繰り返し伝えるのは、果たして必要なことなのか。

戦争のように、人間によって引き起こされた過ちであるならば、教訓として、2度とこのような悲劇を繰り返さないように、その愚かさを伝えていくことには意味があると思う。

しかし、東日本大震災のような天災は人為は関与しようがない。人間の行動や意図とはかけ離れた場所から引き起こされた天災。その悲劇を伝えることは、人々の負の感情を引き出すだけではないのか。

被災者でもない私が何も言えることではない。

しかし、もう時は流れたのだ。
人々は少なからず前を向いて歩き出しているのだ。

後ろを振り返らせる行為など必要ない。
必要な者は、あるべき時に、ちゃんと前向きに、
後ろを振り返るだろう。

他の者の関与など必要ない。
あってはならない。

ましてそこに金銭的利益が生まれるような商売は、冒涜に値するのではないか。


美しい世界は、自らの中の想像力だけを駆使して描いて欲しい。

国民に共通する巨大なセンチメンタルを引き出すのは卑怯だ。




新海誠監督の映画の作画は大好きですし、
「すずめの戸締り」が作品としてすごくよくまとまった脚本であることは間違い無いと思います。

新海作品は君の名は、天気の子、すずめの戸締り、と、最近の作品だけ見ても、どんどん脚本が良くなっているな、と感じます。

ただ、辻村深月さんの「傲慢と善良」を読んだ時にも感じたのですが、東日本大震災が作中にバンバン出てくる。
それほど大きな出来事であったというのは間違いないのですが、こうして映画や小説という商売の道具に利用されているように感じざるを得ない、というのが私の感想でした。