恒川光太郎「夜市」
あらすじ
木々の間に一時的な店が並ぶ、
お祭りの屋台とは違って静かな夜市。
不審な人物、いや、人物とも言えない得体の知れない者たちが、剣や棺桶や怪しい薬などを何百万円という高い価格で販売している。
何かを買うまで絶対に帰れない夜市。
裕司は10年前、弟と夜市に紛れ込み、野球の才能を買った。
お金を持たない小学生の裕司が売ったのは、
「弟」だった。
弟を売ったことに罪悪感を抱き続けてきた裕司は
弟を買い戻すため、今夜再び夜市を訪れる。
刀剣屋の一つ目ゴリラは言う。
「英雄の剣が引き抜けたら10万円で売ってやろう」
挑戦しようとする裕司を静止したのはひとりの老紳士だった。
「あんた、あの剣が欲しいのかい。
殺したい奴がいるのか。」
裕司は首を横に振る。
老紳士はささやいた。
「なら、譲ってくれないか。」
「夜市」はホラー小説とされていますが、
グロテスクなどではなく、美しくも妖しいファンタジーの世界に誘ってくれる小説です。
感想
※ここからは思いっきりネタバレになります。
感想、とは言ってみたものの、この作品を読んで感じることを言葉にするのは非常に難しい。
子供の頃、夜市で売ってしまった弟が
人攫いから逃げ出し、違う世界で老人として生きていた。
もうあの店に弟は売られてなんかいなくて、
自分と引き換えに「弟だと信じるもの」を買おうとする僕を、弟が助けてくれた。
弟を買いに来た。
けれど弟はもう売られてなんかいなくて、
ましてや老人として生きていて、
今おそらく彼は現実世界に帰ることができる。
もう何もいらない。
物欲をなくした裕司は、夜市の「客」では無くなった。
「客」ではない彼は取引をすることもできず、夜市の一部として消えていく。
裕司は戻ることができなくなってしまった。
夜市に飲み込まれてしまった。
それでも裕司は幸せだったと思う。
彼が欲したことは実現したからだ。
弟を現実世界に取り戻したい。
たとえ自分の命と引き換えにしても。
彼の願いは果たされた。
もともと死のうと考えていたのだ。
弟を売ってしまった罪悪感に耐えかねていたのだ。
弟が再び現実世界に戻り、あるべき人生を送ること。
奪ってしまった弟の人生が再び取り戻されること。
それだけが、裕司にとっての救いなのだ。
姿が変わり、両親の元にも帰ることができない弟は、またしても苦労を重ねることになるだろう。
しかし裕司にとって、弟が戻った先の苦労のことなど、きっと大きな問題ではない。
そんなことは考えていない。
弟を戻してやれたらそれでいい。
ある種の自己満足のようでもある。
実際に弟は帰ることを望んでいたのだから、
弟にとっても幸せなことであるのかもしれない。
裕司という、ひとりの青年が消え
若さも人との繋がりも失った、ひとりの老人が
この世界に戻ってきた。
希望は失われてしまったかに見える。
しかし、これは彼らの望みを実現した世界だ。
彼らが望んだ世界そのものではなかったとしても。
その先の幸せは、彼らが自らで掴み取るしかないのだ。
どんな願いも美しい形で叶えてくれるほど、
神は我らの側ではない。
しかし完全に見捨ててしまうほど
彼らは私たちを見捨ててもいない。
なんの代償も払わず、何も失わず、
望むものだけ得たいというのは理不尽である。
相応の代償を払ってでも叶えたいこと。
救いたい人。戻りたい場所。
理不尽さの中に生きる人生だからこその
美しさ、儚さを妖麗に描いた小説だった。
