ヤフーブログで「あやねえのラブレター」という「愛と感謝」をテーマにしたお話を、ごくたまに書いています。

 

 数日前、ふっと、書きたくなって、すぐに書き上げたお話がありました。

 

 その日は、ちょうど小林麻央さんが亡くなられたニュースもあり、そのこともちょっと思いつつ・・・人生や愛について思うことを書いてみました。こちらのブログにも、転載してみることにしました。以下、そのお話。

 

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「父の手書きメモ」

 

 最近、わが家は大掃除大ブーム。というのも、この4月に父が他界したので、彼の物を整理している。

 残したもので、1番多いのは、手書きのメモや、レポート用紙など文字を書き付けたもの。
 
 元々物書きになりたくて、早稲田大学文学部に入学予定が、スポンサーだった方とお酒を飲んでケンカし、結局バイトをし、奨学金をもらいながら千葉大の教育学部に入り、小学校の国語教師になった・・・などと言う話を何回か聞いたことはあったが、何しろ、書くのが大好きだった証拠に、文章、メモ、手紙、などなどたくさん残っている。母は、

「いっぱいありすぎて、どうしたら良いか判らないわ。綺麗なのひとつ残して、全部捨てちゃえば良いのかしら?そうするしか無いよね・・・でも、お父さん、本当に真剣に生徒と向き合っていたのね。生徒とやりとりしていた手紙なんか読むと、感動しちゃうわ」

 そんな父が亡くなった場所は、週2回通っていた、リハビリ施設だった。

「昼食時にのどに物を詰まらせて、動かなくなってしまったと電話が来たから、今から病院に行く」

という母の留守電を、その日の仕事先だった水戸で聞き、かけなおしたら、1時間ほど前に父は息を引き取ったとのことだった。
 
 その時一瞬は苦しかったかもしれないけれど、長く痛がって苦しまなかったということになる。それはそれで良かったのかもしれないと、後で母と話したりした。
 
 それ以前に父は、16年間双極性障害、いわゆる躁鬱病(そううつびょう)を患っていた。

 元々、明るく破天荒なキャラクターで知られていた父。

「お酒を飲ませておけば、治るんじゃない?」

最初、鬱状態がスタートした時、父を良く知る何人もの人達は、そう言った。まあ気持ちは判らなくも無い。

 でも、病気とは不思議なもので、そう簡単ではなかった。

 父が病気にならなければ、知り得なかったことを、私も知ることができた。一昔前なら「精神的な病」で片づけられていたものも、医療や考え方が進歩して

「脳神経の働きの影響で、感情にも影響が出る“身体の病気”のひとつ」

であることを、まず学んだ。
 
 英語での病名はバイポーラーというのだが、正に北極(ノースポール)と南極(サウスポール)、両側を行っては戻り、また出かけるような、行ったり来たりを繰り返すのだ。言い得て妙だな、と思ったりした。

 鬱は有名なので、ご存知の方も多いと思うが、まずは気持ちが落ち込んでくる。そして生きる気力が無くなり、夜は眠れなくなり、人に会いたくなくなり、何も欲しくなくなり、食事もしたくなくなり、動きはゆっくりに。自分で命を絶ちたくなる場合もあり、そうなると周りは目を離せなくなる。

 ところが、躁の時にはそれが逆転、全てが楽しくなる。鬱の無気力だった時間を取り返さんばかりに、人とコミュニケーションを取り、生きる喜びを謳歌する。本人がハッピーなだけなら良いが、眠るのも惜しくなって真夜中にゴソゴソ活動、そして怒りっぽくもなり、又様々な物を欲しくなり・・・全ての欲が一気に吹き出す感じと言えば良いだろうか。

 亡くなる前は、今までで最高潮にハイだった。何人もの友だちや教え子達とも連絡を取り、再会していたのだった。幸せなままにあの世に旅立てた父・・・そう、幸せだったと思われる。

 又、しきたりや堅苦しいことが大の苦手で、常日頃

「お葬式、お通夜もしないで、家族だけで見送って、時期を見て散骨(海に撒く等)を」

と言っていたので、そうしたのだが・・・ユニークで人情家だった教師の父を慕ってくれている教え子の皆さんが「父を偲ぶ(しのぶ)会」をしましょう、企画してくれた。ありがたいことだ。それは「笑い多め、ほんのちょっと涙の素敵な会」として、6月頭に無事執り行われた。私も仕事でマイクは慣れているし、と「サプライズ司会」を立候補して参加。会場では「お父さんが話してるみたい!」と皆に言われ、ならば本当に良かった、と思ったのだった。

 その後やっと落ち着いて・・・只今、大掃除中。

 今、私が手にしている一筆箋のメモ帳は、ごく最近のもの。表紙には、書き始めの日が記されている。

「Tさんとの交友記 平成28年9月22日 秋分の日」

リハビリ施設の職員だったTさんは中国のご出身。大学教授もされていた明るい優しい方だった様で、父は大好きだった。長く日本に住んでいたが、確か昨年末に祖国に本格的に引っ越すことになったと聞いていた。
 
 私自身、中国とは最近ご縁があり、この4年ほどの間に10回以上、仕事で中国に行く機会があったから、簡単な挨拶ならできる。それを伝えていたから、それもメモしてあった。

「おはようございます = ザオシャンハオ」
「こんにちは = ニイハオ」
「お元気ですか = ニイハオマ?」
「ありがとう = シェイシェイ」
「どういたしまして = プーカーチ」
「又会いましょう = ザイチェン」

 父が気になっていたらしい「一人っ子政策」「文化大革命」「万里の長城のセメント事件」「最近の大気汚染事情」など、日本と昔から関わりの深い隣国に関する質問に、答えてもらったことのメモも。

 料理、文化、暮らしなどについてのメモも。

 そして、Tさんの故郷を訪ねる為に、パスポートを取って、どこの都市に行くなんてメモも。

 Tさんにとっては、父は、ただの、介護施設に通っていたひとりのお年寄りだったかもしれない。
 でも、父にとってのTさんは、かけがえのない大切な人だった。メモを見れば判る。

 そう、父は、人と人とのつながりをとても大切にしていた。「偶然は必然」と、心を通わせることの出来る人を大切にし、関わった人の心を明るくすることをいつも考えていた。

 それは、娘の私にも・・・病気がひどかった、最後はそうではなかったとしても。

 相手をいくら思ってたとしても、それは相手に伝わらないこともある。こっちが勝手に思っている場合もある。

 でも、それでも良いんだな、とメモを見て思う。人に対する愛情は、なにがなんでも、何があろうと素敵なもので、素敵なことだ。
 
 もちろん、きちんと良い形で伝われば、それが1番。そうできないことも、きっとある。でも、その前に人を愛する気持ちを持てることが、大切なんだ。だから、多くの人に父は愛された。もちろん、そうでない人もいたでしょうけれど・・・それでも、その相手が少しでも、何かの心に触れる良いものを、受け取ってもらえていたらと良いな、と願う。

 生き物には、それぞれ寿命がある。
 人によって、生きる時間は違う。
 私も、いつかは死ぬ日が来るし、それはいつか判らない。

 その日が来るまで、できるだけ愛する気持ちを持ち、できるだけ人の愛を感じることができるようになるには、どうしたらいいのかな?
 
 父のメモを見ながら、そんなことを考える。