紗田氏、声優グランプリ1月号を720円で買う(3年連続3回目)
年始早々葬儀。
場所も場所で、どこぞの会社のひとらが列レベルで来てたし、
何の関係があるのか傍目にはさっぱり理解らん親子(女子高生)もいて、
それなりに大層な式でした。
弔電にとある代表選挙に参戦してる衆議院議員の名前があるくらいだから、
世間的にはそれなりに立場のある人物だったんだろうなあとは思う。
私は立場がそれなりにと言えるほどの人物ではないものの、
席順5番目というそれなりに近親者なので当然参加。
初めて自分の名前が記されたお供えのお花を見て寒気がした。
もうそういう歳になったんだなあって。
で、目の前に拡がっている漠然とした「死」に特別思うとこはなかったし、
そもそも泣いてるひとが数人しかいなかったのだけど、
(なんでこのひとが泣いてるんだろうと思ったひとは見えた)
こうはなりたくないな、という節はあった。
あんまり泣いてもらえてないとかじゃなくて、
そもそも荼毘に付される、というのがね。
どこの部位の骨なのかがほとんど理解らないレベルで焼かれてしまうんです。
何度か経験しても、そういうのを見るのは気分のいいもんじゃない。
それをひとつひとつ拾ってく儀式も、なんだかなあと思う。
あまりにも変わり果てすぎて、実感がまるで持てない。
実感できるのは生々しいその香りだけ。
だいたいついさっきまでぴんぴん生きてたひとが、
48時間も経たないうちにそうなるなんて想像できますか。
.....恐ろしい。
通常でもこうなのだから、事故だとしたらもっと恐ろしいことになる。
だから私はこんなときいつも、生き抜くこと、ということを考える。
生き抜いたひとの、安らかなる死というのも見たことがある。
まさに口から魂が抜けていったような。
できればそうありたいなあ、と。
逆に、死に際に恐怖があっては絶対に人生が失敗してると思うから、
できればそうはなりたくないなあ、と。
突然死んでしまうひとが焼かれる前後に立ち会ってはいたくなかったなあ。
でもまあ、それも済んだ話で、
誰かの死に立ち止まっている場合でもないのです。
近々今年2回目の葬儀に出ることも約束されているのですが、
この春にはそれなりに出会いのイベントも約束されていますし、
切り替えていかないといけない。
切り替えていくといえば、
まずは例の雑誌を買い、カレンダーを切り替えた。
滅多に買わないが毎年この月のこれだけは買うという、声優グランプリ誌。
この雑誌はふろくのカレンダーがいいんだ。
3年もすれば「内山夕実さんの演じたキャラ」で打線が組めそうな気がしつつ、
やはり最近の声優の皆様にはヴィジュアルも相当なものが求められるのか、
結果、普通に部屋に飾れるものとしてこれは重宝するのです。
でも今年のアニメはまだ何も見ないっていう。
タイトルだけで切りまくってる。
「○○の××」
「○○・××」
「○○○○」
タイトルがこの形式に収まる新作は、少なくとも上半期はダメじゃないかと。
というか、既存のものと似たり寄ったりの雰囲気が見なくても理解るのがね。
かといって早く春になってくれないかなあとも思えない。
締め切りが.....。
ほんと、切り替えていかないとダメですね。
というわけで、1月前半の私はだいたいそんな感じです。
X∞