お久しぶりです、五十嵐です。

台本執筆中で、他のことを書く気がしなくてお休みしてました。

それでも、何か残しておかなくてはと思うことがあったので素直に書いておきます。


最近、義理立てで芝居を観に行くことをやめていました。

なるべく自分が行きたい団体に行き、観たい芝居を観るようにしています。

勿論、役者仲間から告知がきて行くときも、行きたいという自分の意思で行っています。

ほんとにスケジュールの都合で行けないときもありますが、
何かと理由つけて行けないと断ることもあります。(ごめんなさい。)

あとは、「その人だから行く」というときもあります。

信頼してる人だから。好きな人だから。
大切な仲間だから。

応援してあげたい気持ちがあっていくんです。


芝居を観に行くお客さんの大半はこれだと思います。


だからこそ、

観客を簡単に裏切るようなことをしてほしくありません。



でもそんな気持ちなんてまるで無視した、裏切ってくる団体が、作品が、公演が、この小劇場にはまだまだ存在します。


話の面白さつまらない云々のことは、好みだし、それは正直どうでもいい。

肝心なのは、見え方だと思う。


団体の姿勢、主宰の姿勢、演出の姿勢、役者の姿勢。


わたしも役者として、最近つくづく思うことは、
芝居には人間性や人柄が如実に出るということです。

恥ずかしいくらいにバレます。


偉そうなこと言ってますが、わたしは自分で自分の演技が上手いと思うことはありません。

でも、いつも芝居に対しては、そのときの最高を目指して取り組んでいます。

真摯に、率直に。

お客さんに、芝居する相手に、嘘だけはつかないように、
今の自分にできる限界を晒します。

それが、役者以前に、人に対する当たり前の誠意だと思うからです。


でも、中には演技の定義を勘違いして、誤魔化す人がたくさんいます。

それを許す演出家もいます。


わたしは、これが大嫌いなんです。

まあ好きな人なんかいないと思うけど。


芝居自体が嘘なのに、嘘の物語を嘘の人間で見せても、面白くないのは当たり前です。

演技には、人が出ます。

演出にも、人が出ます。


大抵のお客さんには見抜かれています。


必要以上の大声で抑圧するような芝居や、
漫画やアニメのような、人間の身体と言葉が伴ってないテンプレ芝居。

声が小さくて聞こえないとか、滑舌が悪いとか、
ほんとに初歩的なことを見落としてる役者。

何度も噛む人や、トチったりする人は結局、その程度でやっているということ。


基本的に、目の前に伝える人がいるということがわかってない。

それを指摘しない演出も、どうかと思う。

客観視できないのなら、それは自己満足でしかない。

そんな、"人でなし"な芝居が面白いはずありません。


でも、それをお金を払って、時間をつくって、わざわざ観に来ているお客さんがいるのです。

なぜなら、信じてるから行くわけです。

そこには信頼があります。
良いものを見せてくれるだろうという信頼のもと、足を運ぶわけです。

一度失った信頼を取り戻すのは、容易ではありません。

それがわかってない、考えていない団体が非常に多すぎます。


結局はそういうところが減らないのも、無くならないのも、舞台はやろうと思えば誰でもできてしまう世界だからです。

小劇場がいつまでも下積みだ、お遊びだ、マイナーだ、なんて思われてるのはその部分が大きいと思います。

信頼のないものに、共感は得られません。

人は集まりません。


どんどん、売れない役者の溜まり場になっていく。




おかげさまでわたしは、怒りと悲しみでいっぱいになりました。

見ないようにしていたものを、まざまざと見せられてしまいました。

取り戻せない大事な休みと、汗水流して働いて稼いだお金を使って、

怒りと悲しみを買いました。

傷ついた心で、この文章を書いています。




はあ。

立ち向かわなければならないんだな。


やっぱり。

すごく傷つくし、傷つけることになっても、

死ぬ気で誠意を見せないといけない。



わたしは、フェルフェンは、責任を持って、観にきてくれたお客さんの信頼を失わず、喜びや感動を返したい。



それがいちばん大事なことだ。