西洋人と東洋人は何が違うのか、数学者・岡潔の哲学的な話。

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人には心が二つある。

大脳生理学とか、それから心理学とかが対象としている心を第1の心と呼ぶことにします。

この心は大脳前頭葉に宿っている。

この心は私と云うものを入れなければ動かない。

その有様は、私は愛する、私は憎む、私はうれしい、私は悲しい、私は意欲する、それともう一つ私は理性する。

この理性と云う知力は自から輝いている知力ではなくて、私は理性する、つまり人がボタンを押さなければその人に向って輝かない知力です。

だから私は理性するとなる。

これ非常に大事なことです。

それからこの心のわかり方は必ず意識を通す。

ギリシャ人や欧米人、主としてギリシャ人や欧米人を指して西洋人と云うことにしますが、西洋人は、ギリシャや欧米の文献をどんなに調べてみても、第1の心以外を知ったと云う痕跡は見当らない。

だから西洋人は第1の心のあることしか知らないのだと思う。

ところが人には第2の心があります。

この心は大脳頭頂葉に宿っている。

さっきも宿っていると云いましたが、宿っていると云うと中心がそこにあると云う意味です。

この心は無私です。

無私とはどう云う意味かと云いますと、私と云うものを入れなくても働く。

又私と云うものを押し込もうと思っても入らない。

それが無私。

それからこの心のわかり方は意識を通さない。

直下にわかる。

東洋人はほのかにではあるが、この第2の心のあることを知っています。

本当は第2の心のあることを知らないのを西洋人と云い、ほのかにでも知っているのを東洋人と云っているのです。

それが定義になる訳ですね。

特に日本人は第2の心のあることが非常によくわかる。

もし、西洋かぶれさえしてなかったら、心が第1の心だけしかない等と、そう云うはずがないと云うことが直ぐにわかる。

と云うのは日本人は、大体第2の心の中に住んでて、時々第1の心が現れるだけです。

例えばですね、本当の友情と云うものを日本人は知ってるでしょ。

本当の友情と云うのを感じるのは意識を通して感じるんじゃないでしょう。

これは第2の心が感じるんですね。

「私」と云うものも入らない。

又私の叔父の友人に中学校の先生がありました。

だから戦前の中学校の先生。

この先生が歌を詠んだ。

こう云う歌です。

  むかわずば淋しむかえば笑まりけり
  桜よ春のわが思い妻

こう云う意味の夫婦仲とか、或いは人と桜の間とかこれは意識を通さないでわかるでしょう。

第2の心がわかるんですね。

それから人の真心に感銘した経験を持つ日本人は多いでしょう。

その時、人の真心に感銘する心は無私だったでしょう。

それから人の真心に感銘する感銘の仕方は、意識と云うものを通さなかったでしょう。

その他芭蕉は、

秋風はもの云わぬ児も涙にて

と云ってますが、秋風が吹くともの悲しいですね。

このもの悲しいと云うのは「私」がもの悲しいんじゃないでしょう。

つまり喜怒哀楽じゃないでしょう。

自からもの悲しいんでしょう。

又、もの悲しいと意識しないでしょう。

直下にもの悲しいんでしょう。

だからもの悲しさも第2の心がわかるんですね。

時雨が降れば懐しい。

この懐しいも又第2の心が直下にわかるんですね。

こんな風に、私、それを情緒と呼んでいますが、日本人は自然や人の世の情緒の中に住んでいる。

そしてそこで時々喜怒哀楽し、意欲するし、理性するだけですね。

住んでいるのはむしろ、自然や人の世と云いますが、自然や人の世の情緒の中に住んでるでしょう。

情緒とは「私」の入れられないもの、感情ではありません。

感覚でもありません。

例えば秋風がもの悲しい。

それから時雨が懐しい、例えば、友と二人いると自ずから心が満たされる。

こう云うの皆情緒ですね。

「むかわずば淋しむかえば笑まりけり桜よ春のわが思い妻」

と云うのも情緒です。

こんな風に、第2の心のあることがよくわかります。

一番よくわかるでしょう。

日本人は情緒の中に住んでいるから。

情緒は第2の心の中のものだから。

さて、ここで東洋の先覚者の云う所を聞きますと、例えばこう云っているのです。

自然は一口に云えば映像である、それから人の体も映像である。

第1の心も映像である。

この映像と云うのは、テレビの映像の様なあわただしく全体が変ってしまう映像ではない。

しかし徐々にしか変らん部分とそれからその大切な部分は急速に変わる部分と二つ持っている。

しかしながらこれはやはり映像ですね、存在ではない映像です。

で、自然は映像である。

五尺の体も映像である。

第1の心も映像である。

第2の心だけが常に存在する。

そう云ってるのです。

普通これを五蘊皆空(ごうんかいくう)、唯有識心(ゆいうしきしん)と云う風に云います。

五蘊皆空と云うのは、五尺の体も物質の五原素の仮に集まったものだ、欲心と云われてる第1の心も五原素の仮に集まったものだ。

唯有識心と云うのは第2の心だけが、これ識と云ったり識心と云ったり、心の原素です。

これだけが常に存在するのだ。

この五蘊皆空、唯有識心、と云う云い方は禅で云います。

同じ様な云い方を般若心経でもしています。

こういったものは少なくとも2千年前から云ってると思う。

それから万法唯心と云う云い方もあります。

これはすべてのことの原因は心にあると云う意味です。

この云い方なら釈尊の昔からあったでしょう。

それから山崎弁栄上人は、一口に云えば、物質は第2の心の世界から生れて来てまたそこへ帰って行くのだ、こう云う意味になることを云ってられます。

だから体は第2の心の映像だ、とそう云うことになりますね。

第1の心も第2の心の映像だ。

第2の心だけが常に存在する。

だから本当の自分とは、第2の心だと云うことになる。

そして常に存在するんだから、不死だと云うことになります。

第2の心を自分と自覚した人を目覚めた人と云い、そうでない人をねむっている人と云うとよいと思います。

目覚めた人のことを仏教では仏、大菩薩と云い、日本では天つ神と云います。

中国で聖人と云われている人には目覚めている人が多い様です。

又仙人とか神仙とか云われてる人達の中にも、目覚めてる人はいると思います。

ギリシャには目覚めてる人は見当たらない。

欧米には、キリスト教の中で目覚めた人はいただろうと思いますが、外には目覚めている人は見当らない。

この、第2の心の世界ですが、二つの第2の心は二つとも云える、一つとも云える。

不一不二と云うんです。

不一不二と云ったら二つとは云えない一つとも云えないのですが、この自然と自分とは不一不二、他人と自分とも不一不二、こう云う風。

この第2の心の世界はその要素である第2の心は二つの第2の心が不一不二だと云うのだから数学の使えない世界です。

又この世界には自分もなければ、この小さな自分ですよ、五尺の体と云う自分もなければ、空間もなければ時間もない。

時はあります。現在、過去、未来、皆あります。

それで時の性質、過去の性質、時は過ぎ行くと云う性質はあります。

しかし時間と云う量はありません。

そんな風ですね。

自分もなければ空間もなければ時間もない。

その上数学が使えない。

物質はここから生まれて来て、又ここへ帰って行っているのだと云う意味になることを、山崎弁栄上人が云って居られる。

そんな風に不一不二だから目覚めた人はこんな風になる。

花を見れば花が笑みかけているかと思い、鳥を聞けば鳥が話しかけているかと思い、人が喜んで居れば嬉しく、人が悲しんで居れば悲しく、人の為に働くことに無上の幸福を感じ疑いなんか起こらない。

こんな風です。

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これ仏教ですよね。

岡潔は「理性」というものを、簡単には評価していません。

それは何故かというと、一般に使われている「理性」というものは、2つの不純物が混じっているというのです。

つまり、「理性」の働く領域に3段階あって、純粋に心の世界に働くのが真智型理性(これを岡潔は純粋理性といい、仏教は平等性智という)、次に物質的自然界に働くのが妄智型理性(仏教は分別智という)、更に自己本位が前提の自他の別のある社会に働くのが邪智型理性というのです。

レベルの低い方からいいますと、邪智型理性とは国際紛争などで国益と称して国家が利己的に使う理性です。

今話題の尖閣諸島や北方領土や北朝鮮の拉致問題など、国と国とがいまだに邪智型理性しか使えないところに問題解決の難しさがあるので、これでは話し合いの余地はないのです。

何も外国ばかりではなく、テレビで見る国会中継も日に日にその傾向が強くなってきています。

また、数学者の藤原正彦さんなどが、

「論理はどうとでもなる。人殺しだって正当化できる」

と言っているのも、この邪智型理性のことです。

次に、これは今の人は殆ど気づいてないと思うのですが、もう一つが妄智型理性というもので、主に自然科学者などが使う、時間空間の中に物質があるという前提のもとに理性を働かせるものです。

岡潔がよく引き合いに出すのが哲学者カントの言葉で、

「時間空間は先験観念であって、自分はこれらなしには考えられない」

と言っていますが、既にカントの理性にはこの「妄性」が色濃く入っています。

カントのみならず西洋の哲学者や科学者は、この「妄智型理性」しか使えないから、だから多くの未知なる根本問題が未解決のまま残されていることにも気づかないし、まして真の生命現象など分かるはずがないと、岡潔はいうのです。

「西洋人は第1の心のあることしか知らない」

今日まで西洋をこれほど簡潔に定義した人はいないから、私たちはそれを聞くと余りにも「極論」ではないかと思うかも知れません。

実際、岡潔の言うことは一見、この「極論」の連続です。

しかし、ここに岡潔という希有な数学者の、先見の明と洞察力の深さを垣間見る思いがします。

この西洋の限界に気づきはじめたきっかけは、中国の古典「論語」を読んだ時からです。

例えば、

「巧言令色鮮し仁」
「大人は和して同ぜず、小人は同じで和せず」

などと読むと、東洋と西洋では価値観の方向性が反対ではないか。

つまり、東洋思想は概して西洋思想のパラドックス、全くの逆説ではないかと思ったのです。

その後、岡潔の本から西洋は第1の心の自我、東洋は第2の心の無私の心が基本になっていると知るに至って、はじめて心底からその違いが腑に落ちたのです。

老子は更に強い言葉を残しています。

「言う者は知らず、知る者は言わず」

これは作家・小林秀雄の好きだった言葉でもあります。

《 物事をよく知り抜いている人はみだりに口に出して言わないが、よく知らぬ者はかえって軽々しくしゃべるものである》

以前、パーリ仏典(片山一良訳)を読んだときにも似たような話が出ていました。

「第2の心は意識を通さない」

心の構造図を参考にしてもらえば更にわかりやすいと思いますが、「意識」というのは唯識論では、第6識といって、第1の心の中にあるもので、いわば第1の心のセンサーの役目をするものです。

デカルトはさすがに西洋人らしく「自分とは何か」を徹底的に疑ってみて、ついには、

「我考える、故に我あり」

といったのですが、この時の「我」というのが何かという問題もさることならが、この「疑う」ということが「意識を通して考える」ということで、前頭葉の第1の心の働きです。

一方、岡潔は、

「真の友情とか秋風とか雨の趣きとかは、本当にあるかと疑って見てみると消えてしまうものである」

と言っています。

そうすると第1の心の「感情」は意識を通して分かるものであり、第2の心の「情緒」は意識を通さないで分かるものであるといえると思います。

では、「意識を通さなくて何でわかるのか」と聞かれると、岡潔は「実感でわかるのだ」と答えています。

そして、西洋の自然観と日本の自然観とが微妙に違っているのは、この意識を通すか通さないかの感性の違いによるのではないかと思うのです。