最近、幸せって、
良い気分(ポジティブな感覚)のことではなくて、
充実感のことなんじゃないか、
と思うようになりました。
ここでの「充実感」とは、
たった一つの限りある私の命を、
有意義に燃やしている、
という感覚。
私という人間の、
地球という惑星の生き物としての、
本質に則った時間の使い方(過ごし方)をしている、
という感覚です。
私は子供の頃の経験から、長年、複雑性PTSDを抱えていて、心がとても辛くなってしまうことが、度々あります。
そんな時は本当に苦しくて、
いつまでもトンネルの出口が見えないような、
ブラックホールに独りぼっちでいるような、
どうすることもできない、
どうにかなる見通しもない、
無力で絶望的な気分。
このまま生きている意味があるのかな、と感じることが、何度もありました。
しかし、そのような苦しみの只中にいる時、
苦しみの獣に飲み込まれてしまっているような時。
不思議な事に、
そこに、
そこはかとなく、
人間として正しいことをしているという
ある種の充実感があることに、
気づいたのです。
(Joe Sebastien on Pinterest)
この「正しいこと」とは、
善悪のことではありません。
「人間という存在の本質に沿った経験をしている」という意味です。
人という存在だからこそ感じる、心の痛み。
何万年も前の祖先も同じように感じたかもしれない、それ。
もしくは今、世界の反対側で、まったく異なるシチュエーションかもしれないけれど、知らない誰かが感じているかもしれない、同じ気持ち。
そういう、ヒトという存在として、すごく本質的な気持ちを味わっている、という感覚。
それは、ヒトのDNAが、いつ・どこで(世界のどこで、歴史のどの時点で)育っても、ヒトの体として具現化するように、
いわばヒトの心理的なDNAを、感情という具現化で体験しているような、
そうやって人間存在の本質に触れているような、充実感です。
例えば、簡単でそこそこ良い収入につながる仕事をしているとき。
そんな時はラクで、収入を作っていることも嬉しくて、心の闇に佇んでいる事より、
あるレベルでは、私はずっと好きです。
しかしそこには、
今ここにあり、
今ここにしかない、
この私の命を、
本当に有意義に燃やしている、という充実感はありません。
適度なエンタメや、社交もそうです。
確かにこれらだって、とても人間的な経験ですが、あの、えぐるような心の痛みにあるような、人間存在の本質に触れるような感覚ではないのです。
そして、私は、ラクで楽しい空虚さよりは、苦しくても悲しくても、どうしても充実感を選んでしまうことに、気付いたのです。
ネガティブな感覚だけが充実感をもたらす訳ではありません。
心の底からの静かな感動だって、人としての本質的な充実感をもたらすでしょう。
私にとっては、自然に触れている時間がそうです。
ただ、「幸せ」という言葉は、私たちにどうしても良い気分(ポジティブな感覚)を連想させます。
しかし「幸せ」を良い気分やポジティブに限定していては、本当の幸せからズレてしまうかもしれない。
ネガティブな物事の中にもある、命が真っ直ぐに燃える幸せを、取りこぼしてしまうと思うのです。
長い長い時間の中、
宇宙というこの広大な場所に、
ぽっかりできた地球という惑星。
そこにふと生まれた、ヒトという生き物。
そのような存在としての、本質に沿っていること。
それが充実感であり、本当の幸せなのではないか、と思います。