悲しい結末でしたね。
清家の持っていたマトリョシカ、笑っていたのは外側のマトリョシカだけでしたよね。私から見ると外側のマトリョシカですら笑っているようには見えませんでした。
「最後に笑うマトリョーシカ」
という言葉を考えたのはありさでした。ありさのシナリオでは、1番中にいるアリサが笑っているんだという解釈でしたが、ドラマの題名には「最後に」がついていませんよね。それは何故か。
笑えているのは外側のマトリョシカだけで、清家の内側に入ろうとした人は全て笑えていない、幸せな結末にはなれていない。外側のマトリョシカである清家ですら笑えていない。
だから「最後に」という言葉は題名から無くなったんでしょうね。
清家の内側にいた人間のうち最終回で笑顔が見えたのは踏ん切りが着いた鈴木だけでしたね。でも悲しい微笑でした。
人が傷つけあって孤独になる様がよく描かれている作品だったと思います。
清家は言葉巧みに道上に近づいてBGの証拠を探させて、
かつ道標を立ててくれる道上自身を欲した。
つまり清家は道上を利用しつつも心の拠り所にしていたんですよね。
僕を見ていて
切りたくて切ったわけじゃない
これらの言葉も、道上を取り込むための嘘だったのでしょうか。
でもどこかで清家の本音が出ているセリフだと私は思いました。
ところで、殺人未遂や教唆は立派な犯罪なので、なぜ清家は捕まらずに総理大臣になれているかは疑問に思いました。
道上が黙っている理由は何なんでしょうか。
彼が独裁を始めた時に総理大臣を辞めさせるための切り札として置いている?
なんやかんや中身がなくとも政治家としては優秀だと清家を認めているのでしょうか。そして暴走に走らない限り、清家に総理大臣をやらせようと考えているんですかね。道上の思惑が知りたいです。
清家さん、最後までハヌッセンの存在を疑われて、ヒトラーと同じかのように思われていましたよね。しかも1番信頼していた道上にそう思われた。
これは本当に悲しかったと思います。
ただ自分軸がなく意思がないという特性であり、ヒトラーと同じことをしたい訳では無いはずなのに。
ヒトラーに近しい人であることは確かなので道上が警戒するのも納得出来ますが。
たとえ過干渉な人が周りに多くても、それらの人が清家への愛で動いていたとしたら清家は愛着形成を学べることが出来て人を信用したり、人のために何かしたいという感情が芽生えたでしょう。
しかし信頼したいと思った相手全てから裏切られ、清家という人間は人間らしい感情がなくなっていったんでしょう。
元々DVの家で過ごし、閉ざされた空間で生き、誰かの言いなりにならなければ生きられなかった。
幼少期の過ごし方によって自分軸が取れない大人は現実世界にもいっぱい居ます。
やりたいことが尊重され、やりたいことが見つかり、ちゃんと反抗期には反抗して、そうやって普通に育つことがいかに難しいことか。
現代社会の闇ですよね。
周りの人にもいますし、私自身にもこういう要素はあります。素晴らしい風刺のドラマでしたね。
清家自身も育てられ方と出会ってきた人が悪く、かつ人のレールに乗るという生き方を選んできたからこそ、ずっとさまよっていて孤独なんだと思います。
鈴木もひろこも清家への愛はあったと思いますが、最後に謝ったり話をしたりできたでしょうか。ありさはまあいいとして。
いつか和解することが出来たらそれも清家の孤独感解消に繋がると思うのですが。
清家もそれなりに鉄拳制裁している以上孤独はある程度の代償かもしれませんね。
道上が清家の豹変ぶりに涙を流すシーン、色々な感情があったと思います。
自分が追い求めてた真実のバカバカしさに呆れ、
一方で清家自身にも同情しつつ、鈴木やひろこにも思いを馳せたと思います。
そして自分が半分利用されていたことや清家の本質に迫れなかった悔しさもあったでしょう。
様々な感情に涙を流すしか無かったのに、これに対して「怖いですか?」と悲しそうな顔で清家が聞きましたよね。道上が怖がっているだけじゃないのは明らかなのに。それが分からず。恐れられているかを気にしていましたよね。
ありのままの自分をさらけだしたら出したで、怖がられてないか、ひかれてないか気になってしまう、そんな清家の姿がいわゆる他人軸でしか生きられない人の本質をついていると思いました。
そこで嫌われることが怖くなってお引き取りくださいと言ったのに、道上がこれからもあなたを見続けますと言ってくれたのは清家にとって救いになったと思います。
最後に和田島から貰った時計外してたらしいですね。
和田島の利用すればいいという考えですら間違った考えだと清家自身が気づいたからでしょうか。
利用したりされたりではなく、ありのままにいて愛されたり愛したりすることが何より大事だとわかって来たのでしょうか。