災害女子。(その4) | ココアラテぷらす、ときどき読書

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子宮筋腫発覚!どうなる私!?
2019年にステージ0の乳ガンが発覚しました。(5月20日に手術しました)
婦人科と皮膚科と外科にも定期的に通院してます。

その頃、家へ帰宅する途中に私のスマホの充電があと10パーセントになっていることに初めて気づいた。

妹の車の中でテレビを見ていると、厚真での被災状況がテレビで報道していた。

新聞が来ていなかったので、私達は知らなかったのだが、その時点で約10人以上の方の尊い命が亡くなっていた。

そして、また、10人以上の方の安否不明状態だったということを初めて知ったのだ。

 

家へ帰ってみると母が溜まって行く洗濯物にイライラしていた。

我が家は家族に女子率が高く、しかも、私の3才年下の妹は髪の毛が長かったので、1度の洗髪で3枚ものタオルを使う。

それがどんどん溜まって行くので、イライラもマックスになってきていたらしい。

妹がそれがまるで爆弾発言のように言った。

 

「そうだ、手洗いすればいいじゃん」と。

 

母は「あっ、そうか」と言って、沢山の洗濯物を手洗いし始めた。

そしてなんだかんだで1日目の夜は過ぎていった。

電気はまだ来ていなかった。(2日目に続く)

 

(2日目スタート)

災害2日目の朝。

私は殆ど睡眠を取れずにいた。

眠剤は沢山飲んだけれども、脳が全く休まらないのだ。

父が急逝してからのドタバタで。

そうそう、父の事を書くと言ったけれど、ここで書いておかないと忘れてしまうので、書いておくとする。

 

父のTは、昭和19年の生まれ。

日高で生まれ、友人の結婚式で母と出会ったらしい。

そこでなんだかんだでのドタバタがあり、母と結婚。

私はK家の長女として生まれた。

 

父は大工で、かなり腕が良かったらしい。

私も自分で言うのもおかしいが、ひっきりなしに、仕事の電話が来ていた。

私は電話が鳴るたびに、誇らしかった。

 

その父が高所から落下したのは、約8年前の事。

約3メートルの高所から頭を下にして落下したようで、おまけに運が悪く、ガラ(コンクリートなどの細々としたガタクタのことです)に激突して、脳挫傷を併発。

 

すぐに119番したようだ。

 

その頃になると、住んでいた町も衰退して来ていて、仕事も減って来て、人も雇えなかったらしい。

後でその現場に行った母と妹(私は手伝いには行っていませんでした)はその現場を見て、すぐに父はもうダメだと思ったようだ。

 

程なくして、救急車やら警察の車やらがきて、現場は大騒ぎになったようだ。

父の出血は半端なかったらしいのだが、幸いにして、手術で輸血をしなかったらしい。

けれども、予断を許さず、ICUに2週間、入ることになった。

その後、お医者さんが「車椅子に乗れるまでに回復しますよ」って大口を叩いたけれど、だけれど、結局父がベッドから起き上がる事が出来るのはその後、1度も無かった。

つまり、寝たきりの状態になってしまったのだ。

 

私達家族に告げられたのは「身体障害者1級となりました」と言う言葉。

それと、もう、胃からは栄養を摂取することが出来なくなったと言う事だった。

その頃、3か月が経過していた。

市立病院からは、他の病院に転院するように勧められた。

私達は、遠いけれど、と感じたが、隣町のとある大型のリハビリ施設がある病院を選んだ。

その病院で亡くなるまでの7年9か月、お世話になった。

 

父の急変を告げられたのは、平成30年の8月14日。

母は「そういえば、もうそろそろパパの(母は父の事を昔からこう呼んでいます)保険証、H病院の受付の人に見せなきゃねー」なんて呑気なことを言っていたら、その日の午後4時ぐらいに病院から連絡があった。

 

「お父さんの熱が下がりません。解熱剤を使って見たものの、下がらない状態で、血圧も低下しています。

非常に危険な状態です。今すぐにでもご家族には病院に来て欲しいです」ということだった。

けれど、妹の車はまだ冬タイヤをつけたままで危なく、おまけにそんなことを知らなかった妹は、友達と約束しているからと出かけようとしていた矢先の電話だったので

 

「次の日に病院に行きます」

 

と電話を切った。

 

すると、またまた電話があって

 

「インシュリンを打っても、血糖値が全く下がらず、おまけに肺炎を起こしていて、病院に来て欲しいです!」と悲鳴のような電話があった。

私達は兎にも角にも急いで(いや、事故など起こさずに急いで妹に車を運転させましたが)病院へ行ってみると、そこには枯れ木のようになっている父がいた。

もはや、青色吐息の状態だった。

妹2人は会社があるため、結局、母と私の2人で父の看病をすることにした。

H病院側で、寝る部屋とベッドを用意してくれていて

 

「疲れたら、ここで休んでくださいね」

 

と言われたけれど、とても休めるものではなかった。

今にも父の息は止まりそうだった。(続く)

 

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