前回の記事の話は一部です。
小学校5年生の記憶はまるっと抜け落ちてます。
小学校の最後の記憶が
母との再開です。

ですが、その前に
母との関係について書き記していきます。

私が2才頃両親は離婚しましたが
私が幼稚園の年中くらいまでは
母が身近にいたような記憶があります。

わずかな記憶ですが
私が幼稚園でアゲハチョウの幼虫を
見つけ手に取り母に見せ
母が泣きながら全力で逃げる
という珍事件や
幼稚園の送迎中に
自転車のタイヤに足が挟まり
骨折した記憶
あとは前回の記事にあがっている通り
ラブホの記憶ですね。
幼い頃の記憶はそれらの事を
よく覚えています。

母が故郷に帰った後は
会う機会がなかなかありませんでした。
飛行機で2~3時間ほどの距離ですから
パッと会えるはずもない。
ですが、小学校1年生の頃
夏休みに私が1人で飛行機に
のってどこかに行った記憶が
あります。
それを小学校4年生の頃に
祖母に聞いたのですが
ほぼ毎年夏休みは母の故郷に
遊びに行っているよと。

それでふと小学校1~2年の頃の
悪夢を思い出しました。

母の兄からのセクハラです。
母の家というものは存在しておらず
母の実家に寝泊まりをしていました。
そこには祖母と母の兄がいました。

布団で寝ていると毎晩下半身に
違和感を感じていて
ですが、それも少し経つと無くなる
この違和感は朝になったら忘れていました。
母の故郷に帰ると必ず起こるので
当時は不思議に思っていた程度でした。

それがまさか母の兄が犯人だと
気付いたのは小学校6年生の夏休みでした。
パッと足元を見ると母の兄の頭が
私の股関にあるんですよ。
気持ち悪いけど大声も出せず
ただただ震え我慢するしかなかった。
誰にも相談出来ないまま
毎晩我慢していました。
母兄は私が気付いていることを知ってからは
セクハラは酷くなる一方でした。
母兄のイチモツを握らされたり
祖母や母がいない間に
キスされそうになったり
口に指を突っ込まれて
液体を入れられたりと
それはもう散々でした。
ついには『そろそろ入ると思うから
入れされて』とまで
言うようになりました。
これがきっかけで男という性別そのものが
恐怖でしかなく、嫌いな対象となりました。

私は小学校6年生ではありましたが
性に関してとても鈍感で
何をされているのかも理解出来ておらず
さわらないでほしいしか言えなかった。
そしたら母兄は『母や祖母にこれを伝えたら
お前はここにはいられないだろうな』
といった脅しまでしてくるように
なりました。

小学校6年生の夏休み、
母から『再婚するから私と一緒に
暮らさない?』という提案を
されていて、ワクワクと不安と
私を育ててくれた祖母や祖父の事
色々な事を考えていました。
母と一緒に暮らしてみたかった。
その思いだけは揺るがなかった。
母の元に引っ越す事を決意していたのです。

なので母兄からの脅しは
脅しとしては十分な材料でした。
今まで色々あった過去。
我慢すれば母と平和に暮らせる
それだけを考えて色々な事を
我慢しました。

引っ越しも終わり新しい学校にも慣れ
友人も出来て毎日外で遊ぶようになりました。
心の安泰だったんだと思います。
母からの愛がとても嬉しくて。

再婚相手の義理父には連れ子がいて
私より母と仲良くしている姿に
とても嫉妬していた覚えがあります。
義理妹との関係はあまりよくなかったです。
私が受け入れられなかった。
考えが甘かったんです。
母を独占できると思ったのかもしれない。
はたまた自分の知らない母の姿を
知っていることに悔しい思いを
したのかもしれない。
義理父や義理父家族と楽しそうに
している姿にムカついたのかも。
とにかく好きになれなかった。

私が来てから母と義理父家族の関係が
こじれました。
原因は私にあったのかもしれません。
母にもあったかもしれません。
義理妹と私に対する態度や
対応が違いすぎると
義理祖母たちに言われてしまったのです。

それからは家族4人で
別の場所へ引っ越しをして
私はまた新しい学校です。
その学校でも友達を作ろうと
頑張っていました。
ですが新しい学校では上手くいかなかった。
隣の席になった男の子が
めちゃくちゃ話しかけてくれてました。
ですが私は男が嫌いで
話しかけられても気持ち悪いと
思うようになってしまい
『話しかけないで。気持ち悪い。』と
言ってしまった。
男の子は泣いて先生に訴え初日に席替え。
そしてわらわらと知らない女の子が
集まってきて『あさまさん最低だね!
A君とB子ちゃん好き同士でやっと
隣の席になったのに、あさまさんのせいで
席替えで離ればなれになっちゃったじゃん!』と
散々言われました。
今日来たばっかりなのにそんなこと知らないよ!
私は悪くない!と言ったものの
落ち着いて考えたら話しかけてくれたのに
酷いことを言っちゃったなと反省しました。
話しかけてくれたのにごめんと
たったその一言すら言うことも
出来ないまま1人でモヤモヤしてました。

そして更に追い討ちでとある事から
また私は1人で歩む道を選ぶようになりました。

母に、母兄には会いたくないと
こういうことをされ続けたと
伝えたら『そんなことあるわけない。
ほんとにあったなら早く言えばよかった。
手でも頭でも叩けばよかった。
拒否しなかったあさまが悪い。』と。

理解してもらえなかったんです。
なんなら義理父とデートの為に
祖母の家に預けられることも。
その都度必ず夜中に母兄が
イタズラをしに来たのです。
義理妹もいましたが
義理妹は何もされない。
私だけが変わらない被害を受ける。
この事で一方的にではあるけど
より一層義理妹との関係は悪化。
母への信頼もなくなりました。
私は母に話しかけることをやめた。
その事についてもお互い話さなくなりました。

そして、落ち着いて来た頃に
また事件は起きました。
母、義理妹不在
義理父と私の二人で留守番をしている時
義理父が馬乗りになってきたんです。
小学校6年生にして
胸がDカップまで成長していました。
義理父は『もっと肌を隠す服を着なさい。
何されるかわからないよ?』と。
胸を触ったり好き勝手やってました。
私はショックでした。
結構義理父とは仲良くいい関係が出来てたと
思っていたのです。義理妹にも優しくするよう
努力し、家族の関係をよくしようと。

大人の男はつねにこんなことを
したがるものなのか。と理解しました。

そんな中、母は妊娠しました。
私は中学生になり妹が生まれました。
すごくすごく可愛くて
私にとっては唯一血の繋がりがある妹で、
ですがその妹は間もなくして
病気が判明しました。
手術をしなければこの先長くないと。

妹は入退院を繰り返しました。
全身黄疸が出る度に入院して
腸が長すぎて体内で絡まっている
少しずつ切除しなければならないと
初めて手術をしました。
その後も体力の回復が確認でき
安定してきた所で再手術
計4回の手術の後に
妹は生後11か月でこの世を去りました。

その11か月の間は家はとても大変でした。
母と義理父は精神が崩壊していた。
私たち義姉妹で家事の分担などをしていました。
ですが、妹は部活もあったので
私が食事を作るようになりました。
手術費用が高い為母は借金をしました。
妹の病院代でお金がなくなる毎日
そんな厳しい中、義理妹が
家のお金を盗みクラスのお友達に配る
事件が起きました。
妹も妹なりに病んでいたんだと思います。
私は病む暇もなかったので
気付いてあげられなかったけど。

その事件を発端に私はお金を稼ぐ方法を
探していました。年齢をごまかして
バイトするかと悩んでいたら
新聞配達の仕事があるよと
同級生が教えてくれました。
妹が亡くなるずっと前に私は
新聞配達を始めました。
早朝4時に朝刊とスポーツ紙、
そのまま学校へ
学校では基本的に寝てました。
そして学校が終わったら夕刊
仕事が終わったら夕方6時頃帰宅し
ご飯を炊いて、洗濯、お風呂、
最低限の家事をやりました。

給料は自分と義理妹に1万ずつ
お小遣いでわけて残りは家に納めました。

そんな毎日を過ごしヘトヘトに
なりながらも頑張ればと
妹は助かると乗り越えました。

学校ではとにかく人と関わらないを
徹底していました。
とにかく目立たない事、
大人しく空気のように過ごし誰とも関わらず
問題も起こさず、ただ寝るだけ。

そんな中初めて先生と揉めました。
妹の手術前に私は
父方の祖母が言っていた事を思い出したのです。
千羽鶴を折ると願いが叶うと。

嘘か本当か藁にもすがる思いで
授業を無視してせっせと
鶴を折っていました。
端から見れば不審者です。
先生の注意を無視し、作業を続けていました。
すると先生が怒って鶴を投げ捨てたのです。
私は初めて本気で怒り狂いました。
本気で先生に暴力を振るいました。
『妹が死ぬかもしれない状況で
お前らに何がわかる?
何ができる?勉強?そんなこと
やってる暇はない!この時間さえも
もったいない。妹は戦ってる。
祈ることすら許されないのか?』と。
怒りながら泣きながら私は教室を出ていきました。

私はとにかく学校では
家の事を知られないように
黙ってたし、授業中寝てたたきおこされても
すいませんとだけ言ってまた寝る程度で
特に誰かを攻撃することはなかった。

過去に合唱際の練習に参加しない事を
咎められ一度だけ参加した際に
私のうしろにいた女子二人が
ちゃんばらしていて歌の練習に
ならなかった時に
『もう時間ないから帰るわ』と
私が出ていった事件がありました。
その時は新聞配達のバイトをお休みさせて
もらって歌練習に付き合ったので
練習にならないとずるずる長い時間を
取られイライラしていました。

稼がないとご飯も食べられなくなる。
こんな無駄な時間を過ごすくらいなら
休みをキャンセルして
仕事に出て稼いだ方がいい。
練習なんか来るべきじゃなかった。
そんな思いが先走り練習を放棄したら
問題の張本人が追いかけてきて
なんで!?練習しようよ!と言い出したもので
私は我慢ならずにその女の子の胸ぐらを
掴んで投げ飛ばしました。
そして殴りに殴ってその場を後に。
次の日担任に呼び出され話し合いに。
事情全ては話すことが出来ず
妹が入院していて家にお金がないから
私は働いてるんだと言う事だけを
必死に伝えたら女の子はわんわん泣き出しました。
『ごめんね。ごめん。ほんとにごめんね。
私達がちゃんと練習してれば
早く帰ってお仕事できたのに。』と
謝罪してくれたので
『私も手だしてごめん。』と仲直りをして
元通りなったことがありました。

そんな事情を知らない先生でしたから
驚いたのも無理はないでしょう。
その日に先生と話し合いになり
事情を説明したら
先生は泣きわめきごめんと。
次の日全員で千羽鶴を折りましょうと
いらんことをしてくれました。
嬉しい反面、同情の声も聞こえて
複雑でした。

そして最後の手術の日
学校の先生が慌てて私を呼び出しました。
顔色がとても悪くて、それを見て私は
嫌な予感がした。その先生は
『荷物をまとめて僕が送っていくから』と。
行き先もわからないまま車に乗り込みました。
先生がめちゃくちゃ焦っていたので
何があったんですか?と聞いたら
『妹さんのご容態が良くないそうです。』と
私は涙が出なかった。
『そんなわけない。祈ったもん。
死んだりしないよ。
先生、妹は死なないから。
変な事言わないでください。』と返した事を
よく覚えています。
先生は運転しながら泣いてました。

そしてその日の夜中に妹は死んだ。
最後に笑顔を見せてくれた。
たまたまか、しんどくて神経がつったのか、
家族がみんないて嬉しかったのか
言葉はわからなかったが
眠ったように虹の橋を渡っていきました。

家庭はもうめちゃくちゃでした。
母は包丁を喉元に当て
妹の世界へ行くと自殺未遂するし
妹は妹で反抗期でどうにもならないほど
酷いせいで施設に送られるし
義理父は骨みたいにガリガリで
顔色も悪くなるし
それでも家事も仕事も学校も
やらなきゃいけないと必死でした。
むしろ忙しくしてた方が
泣かなくてすんでよかったです。
守るべきものがこんなにも多いのかと…
親は大変だなと痛感してました。

それからは少しずつ家族の精神の安泰が
見えてきて、落ち着いてきました。
私は自分の事より家族の事を
ひたすら優先してきた中で
今度は私自身と向き合う時期が
やってきました。

中学3年の3学期、入試1~2ヶ月前に
学校から、あさまは高校行けません。
学力、授業態度等総合的に見ても
このままではどこにも行けないと
言われました。
私は高校に行くつもりは一切なくて
お金に困った家族を支える為
仕事をすると決めていたので
先生には問題ないですと
ハッキリ言いました。

その日帰り際に母が泣きながら
言うのです。高校だけは
行ってほしいと。
びっくりしました。
テストは平均5点。基本は白紙提出。
どうしろと?

でも母が泣くから
できることはやってみると。

母は今まで妹の事ばかりで
気にかけてあげられなくて
ごめんねと。
あさまが高校受かるように
私も全力で協力するからと。

母が張り切って渡してきたものは
小学校1年~中学生3年までの
ドリル一式でした。

先生曰くは小学校の問題すら出来てないと
足し算も引き算も出来ない。
暗記能力はあるから社会や国語は
なんとかなるけど
英語に至ってはローマ字すら出来てない
致命的。だから英語は捨てて
算数と理科をとにかく伸ばそうと。

初日で諦めました。
とにかくドリルの漢字が読めない。
国語も致命的やないかと。
なんだこれは…
家族も先生も大きなため息をつきました。

それでも母は諦めなかった。
国語辞典や漢字辞典を持ってきて
まずはそれ全部読め!
書けないけど読めればなんとかなる!
と言われ、ドリル開いて読めない漢字は
家族に聞いてわからない言葉は辞書開いて
うたた寝してしまうんです。
学校の技術で作ったラジオながしたら
女の人が言ってました。
期間中眠くて仕方ない時は
手の甲に鉛筆ちくっとさして
目を覚ましてたと。
真似をしましたが全然目が覚めない。
コンパスを握りぶっ指したら
貫通してしまい机と繋がってしまって
慌てて起き、母を呼び大騒ぎになり
病院!病院!と母が慌てる中
そんな時間はない!と勉強を続けました。
左の手の甲には今もシャーペンのしんが残ってたり
コンパスの傷跡が残ってます。

そうして約2週間死ぬ気で勉強したら
なんと試験問題が合格できるまでに
成長しました。

3校受けて全て合格。
その中で一番安い学校を
選んだら母がそこはちょっと…
どうせなら県立にしよう?と
少し見栄を張りたかったみたいで
県立高校に通うことになりました。
片道電車で1時間。
遠かったです。


また後日続きをあげたいと思います。