私が入院していた病院は


毎日朝と夕方に主治医の先生が入院部屋まで


回診してくださいました。


毎日のようにあった検査も


大部屋でしたがいつもそこで回診とともに


結果を聞いていました。





告知の日、


その日は先生から別室に


呼び出されました。


病理結果が出たからということだったのですが


珍しいな〜なんて思いつつ


でも少しドキドキしながらついていったのを


覚えています。


なんとなく嫌な予感もありました。






私も一緒に同席してもいいですか?と


見慣れない看護師さんと


いつもお世話になっている看護師さんが


一緒に部屋に入ってこられました。


後にその見慣れない看護師さんは


がん専門看護師さんであることを知ります。





なんとなくいつもと違う雰囲気、


なんとなくいつもと違う緊張感。






先生はパソコンに映る画面を見せてくれながら


病理の結果を淡々と説明してくれました。





検査の結果、癌であった


それもかなり珍しい発生形態の


癌であるということを教えてくれました。


癌の深さは粘膜内を超えて筋層、そして


外膜まで到達していて進行癌です。


ステージはⅡ〜Ⅲ。


リンパ節転移は手術で何個か採取して


調べてみないとわからないけれど


いまのところ画像上では問題なさそうだから


おそらくステージⅡだろう。


ということでした。





この日はそれ以上先生から多くの話はなく、


がん専門看護師さんから


抗癌剤をするなら卵子凍結を受けることも


考えてみてと言われ


卵子凍結についてやAYA世代の


癌サバイバーのパンフレットをもらい


部屋に戻りました。







がん告知を受け、不思議と


その事自体に大きなショックは受けませんでした。


ステージⅡで死の切迫感が


ないからこその感情だったかもしれません。


自分が癌患者になるという実感も


きっといまいちでした。


癌は治る時代という思いもありました。


なにより告知よりも治療の方がはるかに


辛い日々が待っていることが


わかっていたからというのもあります。










それよりも告知を聞いて1番に思ったのは


また仕事で迷惑かけちゃうのか。。。


もうここで辞めたほうがいいのかな。


と思ったのが一つ。


もう一つは


お母さんに言っても大丈夫かな。


お母さん、どう受け止めるかな。


泣くかなあ。淡々と受け止めるかなあ。


強がるかなあ。仕事が手につかないって


ならないかなあ。。。


というのがこのとき真っ先に


思い浮かんだことでした。


母に伝えるか悩みましたが


やっぱり1番に伝えるべきだと思い


できるだけ軽く、


だけどありのまま淡々と報告しました。













この日の夜は全然眠れませんでした。




仕事、どれぐらい休むことになるかなあ。


現場復帰、できるかなあ。


食道癌って言ったらおばあちゃんみたいって


思われるかなあ。


これからお金どれぐらいかかるんだろ。


髪の毛抜けるよなあー


そんなの彼女になんかしたくないよなあ。


帽子かぶったまま仕事してもいいのかなあ。


妊娠できないって言ったら


奥さんになんてしてもらえないかな。


車買っちゃったのにどうしよ。


やっぱりいりませんって言ったほうがいいかな。


でももう仕上がっちゃってるよなあ。


車も売っちゃったしなあ。


お母さんにローン渡すことになったら悪いなあ。


食道がんステージⅡの予後ってどうなんだろ。


お母さん今ごろ落ち込んでないかなあ。


もし、もし死ぬのなら


そのときは若い子たちや小さい子たち、


まだ幼い子どもがいる患者さんたちを


どうせなら代表して死ねるのならいいのに。。。



なんってどうしようもないことさえ考えていました。





この日は食道癌ステージⅡの予後について


何度も何度も調べながら


夜を明かしました。






死にたくないよりも


どう生きていきたいか


どう死んでいきたいか。



余命を宣告されたわけでは全然ないけど


少なくとも''死''について向き合い


考える1日となりました。





これが、私の癌と診断されるまでの経緯です。