こんにちは😃
史朗です🤠




日常に學びは在ります。

もっと現実的に言及すれば、

日常にしか學びは在りません。


日常は平凡ですかね?

仮に、今、戦争や紛争の真っ只中にある戦地で暮らしていたとしたら、戦争が日常になるのですね。

戦争という人類にとって大きなテーマなのでしょうが、戦地の人々にとって、それはリアルな現実で、日常に戦争がある状態が普通の生活なのですね。

もっと身近な所では、仮に、今、離婚や失恋をしたばかりだとして、その悲痛な胸の苦しみ、挫折感、喪失感、大きな絶望は、その人の日常にこそあるわけですよね。

画面越しに観ているフィクション映画のお話ではなく、正にこの実在する自分がその身を持って体験しているという現実・事実があります。

離婚も失恋も日常に在る。
そして、日常にしかない。

その離婚や失恋に伴う心の痛みは、リアルな痛みを伴って、日常の自分に確かに感じるものです。

なんだって同じ原理です。

ドメスティック・ヴァイオレンスに苦しむ人は、今まさに暴力や虐待の渦中に在り、命の危険が日常に在るんです。


日常とは本当に平凡でしょうか?


上記のような大きくて分かり易いようなショッキングなイベントが無く、平々凡々とした変わらぬ日々が続いていて『日常がつまらない』と思う事が在るかもしれません。

SNSを覗けば煌びやかな写真と弾むようなフレーズ。
テレビやYouTubeを観れば、非日常的な体験がそこには多く在り、どこか自分とは違う世界のお話と感じる。
こういう感覺になる時、何かの媒体を通してだけではなく、学校や職場で毎日のように顔を見る人に対しても、意識しているいないに関わらず感じています。
その自分の羨望の眼差しは日常に在ります。
それは日常にしか自分が居ないからです。

SNSで閲覧するハッピーも、YouTubeで観る高らかな笑いも、テレビに映る戦争も、隣人の離婚も、友人の失恋も、本で読むDVも、ここに絶対に在るものとして自分がいるという大前提があります。

質問の仕方を変えますね。

自分は平凡ですか?

それは社会的に見た地位や学歴を指して自分は平凡かという問いではありません。

戦争のニュースに胸を痛める自分。
離婚や失恋に思いを馳せて苦しくなる自分。

確かに自分は戦地にいないし、離婚をしていないかもしれません。

ですがそれらの話を聞いて、何かを感じる自分がいるのならば、それは自分がいる事の証明になります。
そして自分とは映画の中でもYouTubeの中にもいない、この日常に在る自分なんです。

あらゆる常識を度外視して、敢えて客観的な見方をせずに主観だけで素直に感じてみて戴きたいのですが、もう一度質問しますね。

日常をリアルに生きている自分は本当に平凡ですか?


道に咲くタンポポを見て、綺麗だなと思う自分。
それは、どんなSNSの写真より確かに在る綺麗なタンポポと感覺。そしてその感覺は自分ありきで、その自分は日常にあり、日常で見つけたタンポポです。

日常は平凡ですか?
自分とは平凡でしょうか?
綺麗だと感じる心は平凡ですか?
綺麗だと自分が感じたタンポポは平凡でしょうか?

人生とは日々の積み重ねの上に成り立っています。僕は日常を自分を通して生きているという奇跡に感動し、そしてその事は日常に、自分に感謝する事になります。ひいては自分を通して表れるこの世界の全てに、全ての他人様に、全ての現象に、全ての命に、全ての存在にも感謝する事にも繋がって、この日常を生きているという現実の自分をとても大切に思う今日この頃です🌼


➖【世界は自分が創っている】って僕は本当だと思います➖
by史朗