《男の子のまま》

の意識を維持している僕から見ると
恋愛や女性という存在は
本当にフィクションや幻想の世界でした。

その存在に憧れて見上げている状態で
同じステージに立っていなかった。

自分とは違う雲の上の遠い彼方のステージにある恋愛と女性を見上げ、現実のものとして受け入れていない。

同じ土俵に立っていなかったのですね。

なので、
恋愛関係や女性を
とても強く希求し
激しく渇望していても
どこかで完全な絵空事として認識していて
現実の僕が実現出來得るもの
という感覺が極めて希薄でした。

不可能なもの
として
僕は確固たる確信を持っていたのですね。

漫画やアニメの世界に強く惹かれて憧れていながらも、フィクションとして信じて疑わないように。





確かに現実にあるはずなのに
ファンタジーとかフィクションとみなして、
現実の僕と切り離していたものは
カラオケやスポーツ
なんかもそうでした。

プロのアーティストが歌う歌
とか
プロスポーツ選手が魅せるプレー
などには敬意を払う僕なのですが、
こと樂しむ事を目的とした
エンタメ要素の強い
カラオケや草サッカーやボーリングなどは
現実として受け入れておりませんでした。

本当は激しくそれらを求めているのに
それが出來ない、
それらに対する欲望を素直に出せない自分を受け入れられず、
エンタメを
“いとも簡単に“樂しむ人達に嫉妬して、
僕の表に出る反応としては
批判する・拒絶する・バカにする
というものでした。


この事も
自己肯定感と直結していると
思います。

眞に自己肯定感が高い人は
素直に謝る事も可能ですし、
エンタメでは自分の欲求を解放し
樂んでバカにもなれます。

謝れない人は
プライドの高い人ではなく、
自己肯定感が低く
自己否定感が強い人です。

自分の欲求を素直に認めて表出させ
その実現を心から樂しめる人は、
間違いなく自己肯定感が強く、
自分らしさも分かっており、
ありのままの自分を認め
その自分を受け入れられている人です。

僕は恋愛にエンタメの要素を感じていました。
その他のエンタメを批判し拒絶しバカにしたように
恋愛も同じく樂しむ事はできませんでした。

女性の華やかさで妖艶でありながら
優美でいて品のある雰囲気とか、
恋愛愛関係における情熱や本能や欲望に素直な所など、
僕は憧れていながらも
『そんな素敵なものが現実にあるわけない。少なくとも僕が望むものであってはならない』
と思い込んで諦めていました。
表面的にでも諦める事で
それが叶わぬ事・手にできぬ自分
を納得させ、慰めていました。


勿論、この事は
僕が願うと願わざるとに関わらずに
幼少期より強く握りしめていた
《大人になりたくない(なってはいけない)》
《男になりたくない(なってはいけない)》
という信念(ビリーフ)があるが故の
幻想だったんですね。

恋愛関係や女性という存在が幻想
なのではなく、
僕の思い込みこそが幻想だったんです。

傍から見れば
当たり前の事と
聞こえるでしょう。

しかし、
僕にとっては
この幻想こそが眞実だったんですよね。

そこに疑いの余地を
一片も挟んでいない
完璧な思い込みで、
それが僕の世界を創っておりました。

僕個人の思い込み一つで
人としての
男としての
極めて純粋でごく自然な欲求を
時に激しく否定し、時に完全にネグレクトして
完膚無きまでに【無】にしていたんです。

【不自然である】
という現実、僕の在り方、生き様、
そして自身の現在地を見定めた時、
僕は大きな衝撃を受け
愕然としました。

膝から崩れ落ちる
とはこの事か、
と合点がいくほどに。


【人間という存在の素晴らしさ】を
【この世界の美しさ】を
【ご縁の奇跡】を
そして
【自然】を
【ありのまま】を
【愛】を
僕は殊の外大切に思って
強く言及し、世の人々に発信さえしていたのに。




・・・[続く]・・・


➖最も身近な自然は、僕という人間の存在です。
その自然のありのままの美しさは奇跡です。それを僕は純粋に素晴らしいと思います。そしてそこに、僕は愛を見ます。自分とのご縁を今は誇りに思っています➖

by史朗


#哲學#思想#エッセイ#随筆#文學#随筆文學#言葉#藝術#スピリチュアル哲學
#在り方#生き様#心#學び#氣付き#人生#命#日常