➖樂しむ事について➖

樂しみ
喜び
は違うのか?

樂しむ事
幸せ
と同義になり得るか?

僕はつい4ヶ月前迄の10年間、
人間関係において大切にしていたのが、
波風立てず
みたいな
平和な関係
でした。

それを意識しまくっていたので、
ある程度、
そのような平和
はあったと思います。

しかしながら、
その平和な人間関係に恵まれていても
僕には
満足感
というものがありませんでした。

特に争いもなく、
日常会話の中で軽い冗談を言い合い、
“殆ど誰とでも“
押し並べて良好な人間関係の中にある。

その事は
僕が意識して築き上げたという自負が
確かにあったのにも関わらず、
満足できるものでは無い
という確固たる思いが
僕の中にはありました。

それぞれの思いは
同時に両立していましたね。

自分が切望した
平和の中にいる筈なのに
僕の心は
平和で無いサイレンが鳴りまくる日々。


今年、引っ越す事があって、
住む場所も職場も
ガラリと変わりました。

この事があったからといって、
『僕は変わろう』
などと特に思っておりませんでしたが、
僕の中では自然と
本当にごく自然な流れで
僕は僕を主張するようになったんです。

それは
家族にも、職場にも、通うコンビニにも、
あらゆる垣根を越えて
僕は自分の思いを考えを意志を
伝えるようになりました。

その事で
今までの僕が避けてきた
摩擦は起きたと思います。

ですがね。

思いの外、
樂しい
と感じている僕がいるのですよ。

決して
人間関係の摩擦、悪化、軋轢は
樂しくないし
むしろ不快です。

争いなんてもっての外と思っています。

その点は
今も避けられれば避けたいところ
として過去の僕と同じ思いです。

ただ、
以前の僕は
自分の思い・氣持ち・感情、
考え・意見・意志、
そういった
あらゆる自分を一切押し殺して、
自分の存在の否定という犠牲の上に
波風の無い人間関係を
構築し維持していましたね。

過去の周囲の人は
ある程度
そんな僕の事を評価して
氣作な人
とか
良い人
とか
腰の低い人
などとは言ってくれていました。

ただそこに
僕の眞の満足感は一切無かったんですよね。
勿論、眞の平和とも感じていませんでしたので、
幸福感も樂しさも喜びも無い。
あったのは違和感だけ。

当時、自分の最期の時を想像して
間違いなく
『もっと自分を主張すれば良かった』
と後悔するだろうな、
なんてやんわり思っていながらも
その自分の声に耳を傾けず、
自分を押し殺して波風立てない在り方
を通していましたね。
10年間、いやそれ以上かもしれません。

そんな思いがあったので、
自然な流れで
意図せず、勇氣も振り絞らず、
自分を主張出來た事は
とても幸せな事と思うし、
満足感を伴った
樂しい出來事とさえ思っています。

そして、
その樂しさや幸福感は
人生の喜び
とか
生きる喜びとして
僕の中に確かに息づいているのですよね。


だけども
この事とはまた違う意味での
樂しむ事
というのがある氣がしてます。

例えば、
飲み会を樂しむ
とか
カラオケを樂しむ
みたいな
難しい思考や分析を抜きにしたような
樂しい氣持ち、樂しい感覺。
シンプルな樂しみ
とか
本能的な部分で感じるような樂しみです。

ここを模索中の今日この頃です☺️。