「クイズは人生を肯定するのか」

クイズが人生を肯定してくれたことなんて、私にはなかったように思う。

誰かがクイズについて語る光景を、この数年でずいぶん多く見るようになった。私自身、きちんと「クイズ」に関わり始めたのは大学に入ってからのことなので、どの口が言うんだ、というところもある。それでも、「そもそもクイズとは」「クイズ王とはなんなのか」「クイズの何が面白いのか」——。この仕事をしていれば、毎日のようにそんな議題が、言葉が耳に飛び込んでくる。

そうした中で、最近よく聞くようになったフレーズが、「クイズは人生を肯定してくれる」というものだった。遊びとしてのクイズの魅力を語る上で、その視座のあり方は様々だ。競技としての駆け引きを何よりの魅力とする人もいれば、多くのことを覚える修練そのものに喜びを見出す人もいる。そこである人が言う。クイズに正解する、というのは解答者が過去のどこかのタイミングでその知識に触れていたから起こることだ。初心者であろうと経験者を相手に一問の正解を取りうるクイズでは、答えることのできたクイズは、その知識を得ることになった過去の経験、ひいては人生を肯定してくれる——。そんな意味だった。

実際、その側面は大いにあると思う。私自身、人にクイズの魅力を伝える際に、このフレーズを用いて説明することが多々あった。だから、クイズは面白いよと。けれど、その実自分の中にはクイズが人生を肯定してくれるということを、どこか受け入れ難いところがあった。多分、それはひがみや嫉妬に似た感情で、正当な思いとは言えないかもしれない。それでも、クイズという場において、他者との競い合いの中で、自分の人生が矮小に思えてしまうことを、ずっと感じ、考えていた。

「光としての競技クイズ」

私がクイズを始めるきっかけになったのは、1冊の漫画だった。

いや、正確にはそうと言えないかもしれない。多くのクイズプレーヤーが語るように、『Qさま!!』のようなテレビ番組で他者を寄せ付けない活躍をする芸能人や、それこそ伊沢拓司のように「高校生クイズ」で魔法のような正解を叩き出す人物への憧れも、もちろんあった。さまざまな要因が私の中で渦巻き、私にクイズ研究会へと足を運ばせたのだった。

それでも、杉基イクラ先生による『ナナマルサンバツ』との出会いは、確実に私の人生を動かした。

漫画で見つけた些細な一致は、私を突き動かすのには十分なものだった。自分もこうなれるのかもしれない。そう思ってしまった。

何事もうまくいかず、中途半端な自分。そんな自分でもクイズなら輝くことができるんじゃないかと、今でこそ本当に浅はかだと感じられるような思考のもと、気づけばいつしか「大学では絶対クイズ研究会に入るんだ」と強く思うまでになっていた。

「クイズは誰のために?」

かくして、私はクイズを始めた。

自分の入学した大学にはクイズ研究会がなかったので、インカレ生も受け入れていた東京大学クイズ研究会にお邪魔することになった。

TQCでの経験は、刺激的という他なかった。ずっとクイズを続けてきたハイレベルなプレーヤーとのフリバ、大会の記録映像でしか見たことのなかったスタープレーヤーの存在。自分の知らないことを鬼のように次々答える面々に囲まれ、クイズってこんなにすごいんだ、面白いんだと衝撃を受けるばかりの毎日だった。
※フリバ:「フリーバッティング」の略。簡単なルールでの早押しクイズを繰り返すこと。

ただ、決して楽しいばかりではなかった。自分よりもはるかに知識のあるプレーヤーを前にして、ボタンを点け、更には正解できるクイズはどうしたって限られる。

強敵を相手に正解できたときは、やはり嬉しかった。他の参加者がボタンすら押せない問題を、自分の経験を頼りに答えられたときには、自分の人生が正しかったもののように思えた。でも、それだって次の瞬間には泡のように消えてしまう感情に過ぎなかった。

クイズは、多寡を比較する競技だ。知識の多い少ないに、プレイング経験の量。そして人生も、比べられるもののひとつだった。その考えがたとえ誤りだったとしても、私はそう思ってしまった。

クイズが救ってくれる人生と、救ってくれない人生がある。自分がいくら持てる限りの人生でどうにか正解を得ようとも、自分以上の人生を以て更に多くの正解を重ねる人が、必ずいる。母と観た大事な1本の映画のタイトルを、「なんとなく観てたから」という理由でいとも簡単にもぎ取るプレーヤーがいる。裕福とはいえない家庭で、「もっと色んな経験をさせてあげられればよかったね」と私に謝る母の顔を思い出す。

気づけば、やっとの思いで正解できた一問よりも、自分の人生ではどうにもならなかった一問、欠落にすら思えてしまうそれの方がどうしようもなく頭にこびりつくようになってしまっていた。私の人生は、足りないんだ。答えることのできたわずかばかりの正解にすがって、自分の人生をどうにか価値のあるものだったと、ただ肯定していたかった。それも結局は、より惨めになるだけのことだった。

今思えば、本当に愚かなことだったと思う。人生はクイズの役に立つが、別にクイズは人生ではない。自分がすべきことは、人生を肯定するために躍起になって過去を漁り、またそれを嘆くことの繰り返しではなかった。きっとただ「クイズ」をすること、それだけだったのに。そんなことにも向き合うことができず、今にまで至ってしまったと、そんなことまで思う。


「あるクイズプレーヤーの話」

私の友人に、山上大喜というクイズプレーヤーがいる。彼は骨の髄にまでクイズが染み込んでいるんじゃないかと思うようなクイズ好きで、私なんかでは頭の上がらないようなプレーヤーの一人だ。

彼との会話の中、以前に言っていた言葉で妙に頭に残っているものがある。それはある大会を指して放っていた一言だった。


当人にとっては本当に大したことのない一言だったと思う。長年積み重ねられたクイズ文脈で問題傾向が固められた、人によっては敬遠されるかもしれないそんな大会を笑っての一言だった。でもそれは、私にとっては救いにすらなりうる一言でもあった。

そうだ、クイズは、クイズなんだと。人生なんて関係ない、クイズのためのクイズをすれば、その場における全てを覚えれば勝てる場がある。そのクイズが悪であるとは私は到底思えなかった。なら、人生にこだわっていた私ってなんなんだろうと、素直にそう思えてしまった。

それに、山上は笑っていた。彼は、素晴らしいクイズを語るときも、しょうもないクイズを語るときも、どちらも同じくらい楽しいことみたいに、等しく笑う。

クイズってそんなものなんだ。今になってようやく、彼の笑顔の理由がわかった気がする。





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