いきている | てざわりの記憶

てざわりの記憶

目で、手で、耳で、時には舌で触れる日々の手触り。

その記憶。

僕はまだ生きてるよ、とはマッキーの歌だったか。

この年齢になると生死はもちろん、生きてはいても最早どうにもならない、人生行くも戻れぬと言う状況を散々見ることになる。

何時だってやり直せる、という言葉も、疲れ切って倒れ込み、うめき声を上げる人間には何の助けにもならない。

肩を貸したところで、本人がもう動けないのだ。

こちらも一生肩を貸すわけにもいかない。自分だって生の足取りは怪しいもの。共倒れがせいぜいだ。

エベレストで倒れた登山家よろしく、その脇を通り過ぎ自分の道を進むしかない。

すまない、いずれ俺も逝く。ほんの少しの時間の違いに過ぎないのだ。

皆で担げ、それが社会だ、とは昔の話。すでに若い人は一人で何人も抱えている。自民党が改憲に人権の文字を入れなかったらしいが、それは正直に今の社会を反映しているのだろう。

平和、人権、平等がウソつきどもの道具言葉に堕した現代では、むしろそれが自然だとさえ思える。

…久々の投稿ながらあまりに暗い話をしてしまった。

ドーナツたべよ!