てざわりの記憶

てざわりの記憶

目で、手で、耳で、時には舌で触れる日々の手触り。

その記憶。

僕はまだ生きてるよ、とはマッキーの歌だったか。

この年齢になると生死はもちろん、生きてはいても最早どうにもならない、人生行くも戻れぬと言う状況を散々見ることになる。

何時だってやり直せる、という言葉も、疲れ切って倒れ込み、うめき声を上げる人間には何の助けにもならない。

肩を貸したところで、本人がもう動けないのだ。

こちらも一生肩を貸すわけにもいかない。自分だって生の足取りは怪しいもの。共倒れがせいぜいだ。

エベレストで倒れた登山家よろしく、その脇を通り過ぎ自分の道を進むしかない。

すまない、いずれ俺も逝く。ほんの少しの時間の違いに過ぎないのだ。

皆で担げ、それが社会だ、とは昔の話。すでに若い人は一人で何人も抱えている。自民党が改憲に人権の文字を入れなかったらしいが、それは正直に今の社会を反映しているのだろう。

平和、人権、平等がウソつきどもの道具言葉に堕した現代では、むしろそれが自然だとさえ思える。

…久々の投稿ながらあまりに暗い話をしてしまった。

ドーナツたべよ!


初盆がやってきた。


そもそもお盆と言う物は自分にとっては懐かしい親戚がそろうにぎやかな日であり、休みが合う友人たちとの再会の日であり、ちょっぴり特別で浮かれて、それでいて不思議な静けさと倦みをはらんだ非日常の存在だった。


今年の四月に父が亡くなり、喪主として慌ただしい日々を送ってきた。

今年迎えるのはいつものお盆ではなく、初盆だ。


亡くなった人が返ってくると言うこの日、現世の高速道路と同じく幽世との道もごった返している事だろう。

次々とやってくるお客さんたちに感謝し、対応しながら、死んだ父親の私の知らない面を沢山知る事が出来た。アダルトチルドレンの私にとって父に対する思いはそんな話を聞いた後でも変わらないのだが、それでも父の存在で楽しい思いや助かった人たちがいた事にほっとする。


あいつさえ死ねば、いや、殺せたら、と何度思った事だろう。

父は死んだ。しかし、自分は何も変わっていない。


私を苦しめた父は今でも私の中に生き、もはや私の一部と化して私を操っている。

それがもはやこの世に居ない存在だと、間違った学びであったと自分に言い聞かせてみても、おいそれと変われない。


もう役に立たなくなったモノと、今でも暮らしている。

見回してみれば、ずいぶんと同じようなものがある。

ブログの存在をすっかり忘れていました(笑)

その後、放送大学は無事卒業し、現在は介護福祉士の実技試験の勉強中です。

相変わらず山に登ったり心理学を学んだり、落ち込んだりお酒を飲んだり・・・あれ、何も変わってないな^^;


ブログも再開しないとね!


放送大学の卒業が見えてきたので、この先のことを決めなきゃいけません。

放送大学大学院を目指すか、精神保健福祉士の道を進むのか・・・。

悩んでおります><

放送大学の試験期間が始まりましたね~!

私の始まりは火曜日の「記憶の心理学」!

教科書をなくしてしまい、あわててamazonで取り寄せるも、私のクレジットカード会社が海外での不正利用のためamazonでの取引ができなくなっていたというダブルパンチ@@;

・・・でもガンバル!