「他人にやらされてた練習を
努力とは言わねえだろ。
好きなことして飯食おうなんて
図々しい特権
与えられた宿題こなした程度で
手に入るわけねえじゃん」
僕の好きな漫画の一つに
「MAJOR」という野球漫画が
ありました。
その中の主人公の吾郎が
同じ高校野球部の合宿を共にした
同級生の寺門に対して発した言葉が
これなんですが…
その同級生は
他にも有能なピッチャーがいる名門の中で
自分の野球に対する能力に限界を感じ始め、
自信を失いました。
だから俺は諦めるよ
と言ったんですよね。
捕手をしている同級生の佐藤も
彼を必死に引き止めるんですが…
「才能の違うお前らに頑張れだの
努力しろだの気軽に言われたくねぇ。
努力したってレギュラーになれねえ奴は
なれねえんだ!」
と返します。
主人公の吾郎は
「お前、本当に才能がねえんだろうな?
つまり、本当に才能がねえと
言い切れるだけの努力はしたのかって
訊いてんのさ」
こう問いかけます。
「俺はキツイ合宿を逃げ出さずに
努力した自負はある。」と言います。
「ならいいんだ」と
吾郎は立ち去ろうとします。
その時に寺門は
俺はもう辞めるから俺のスパイクは
お前が使ってくれと吾郎に渡します。
「この前3足目のスパイクを
履き潰したところだから助かるぜ」
と吾郎は受け取りました。
「え!?」と
寺門は驚愕します。
寺門が吾郎に渡したスパイクは
まだ1足目。
吾郎はそれまで同じ靴を
3足壊れるほどの走り込みや
鍛錬をしていた。
対して
自分は1足目がまだ使える状態。
合宿の厳しい練習を終えた後
影で練習を積んでいたことを
この時初めて知ることになり、
寺門は言葉を失います。
そこで吾郎が彼に言ったのが…
「他人にやらされてた練習を
努力とは言わねえだろ。
好きな野球(こと)して
飯食おうなんて図々しい特権
与えられた宿題こなした程度で
手に入るわけねえじゃん」
立て続けに…
「まあ、でも自分で努力したってんなら
いいんじゃねえか?
本当の努力なんて他人には知る由も
ねえんだからな。」
これは本当に
今もずっと頭に残るエピソードで
僕自身何か事あるごとに脳内で
自分に問いかけられる。
「お前、本当に才能がねえんだろうな?
本当に才能がねえと
言い切れるだけの努力はしたのかって
訊いてんのさ」
答えはいつも「NO」
与えられた宿題以外にまだまだ
やることはいくらでもある。
まだまだ探すこともできるし、
まだまだ全然足りてない。
精神的にキツくなる時とか
落ち込む時は無論あるけど、
最終的にはこの問いかけが
自分自身を立ち戻してくれるし
昔からよく助けられてきたなと思います。
いつの時代でも人の成功に対しての
嫉妬、ひがみ、諦めなどの言葉を
多分目にすると思います。
心の奥底で
それらが複雑に交差していたり
その時に
「才能」とか「努力」とか
その他もろもろの言葉がよく出てくる。
でも、それらは
人様にも自分自身にも
そう安易に多様できるような
軽い言葉ではないのかなと思えます。
誰かの
成功の裏側でも失敗の裏側でも
「本当の努力なんて他人には
知る由もねえんだからな。」
裏側で人が
積み重ねてきた本当のことなんて
誰一人知る由もないんですよね。
その一部や一面を見せられて
知ったつもりになってるだけで。
肉体面でも精神面でも
何かの成長を見せ続けてる人間は
多くの人に姿を見せない影のところで
想像を遥かに超えるようなことを
やってきているはずだから。
その想像を少しでも働かせてみた時、
才能とか努力とかを
どうこう言ってる場合じゃない。
人に対しても自分に対しても。
もっともっと自分にやれることが沢山
あるんじゃないかなと思えます。