小説「大後悔時代」

小説「大後悔時代」

後悔は知らず知らずにそこにあるもの

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26時04分


トイレの鏡で自分の顔を見た後、カオルは気を失ってしまっていた。


うつぶせに倒れている人間を見つけた警察官はとっさに近寄り、まず仰向けにしようと抱えて動かした。


その警察官は、顔面蒼白になった。


なぜなら先程まで話していた人物と同一には思えないほど衰弱し切っており、今にも死にそうな容体だったのである。


慌てて大声で助けを呼び、救急車の手配を迅速に行なった。



時刻不明


カオルは暗闇の中にいた。


あまりにも暗すぎてそこがどこなのか、ましてや自分が立っているのか寝ているのかさえ全く分からなかった。


動いてみようと思ったが、脳から発信した信号が届いていないかのように、手や足が自分の言う事を聞いてくれなかった。


仕方が無いので、記憶の糸をたどろうとしてみた。


すると、徐々に色んなことが思い浮かべることができた。


ある男女の話し声が聞こえてくる。


「この子は他の子と比べて明らかに違う。私にはそれが分かるわ。でもそのせいで私はこの子を育てることができないの。いいえ、育てることだけじゃない、一緒に暮らしていくことが無理なのよ」


「それはやってみなくては分からないんじゃないかな。仮に君の言うように現時点で無理だとしても、この子自身が変わってくる可能性はあるだろう。その希望を最初から捨ててしまうのは非常にもったいないことだと思うよ」


「私自身が壊れてしまっても?」


「壊れないように僕がずっと見守るよ。それに壊れたとしても僕は支え続けるし、君とこの子を好きな気持ちは変わらないよ」


「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいわ。ごめんなさい、母親として無責任なことを言ってしまって」


ただ、それから1ヶ月しないうちにその母親は忽然と消えてしまった。

25時30分


警察官はカオルの友人として署まで来た女性の言葉が嘘には思えなかった。


もし仮に、この女性の言うことが本当であれば、カオルという女性がここにいて、その夫はそのことを前もって知っていたことになる。


だが、実際に目の前にいるカオルという人物は男性で、女性は全く知らない人物だと言っている。


警察官は迷っていた。


これ以上この話に首を突っ込むべきかどうかを。


事件性がない限り、カオルという人物が二人いて、それぞれ別人でした、お帰り下さい。ということで終わることはできる。


とにかく、自らをカオルと名乗る人物をもう一度連れ戻し、三人で話を聞いてみようと思った。


ふと見ると、先程まで座らせていた椅子に男性がいなくなっていたことに気付いた。


移動するにしてもトイレぐらいしか行き場がないことは分かっていた警察官は、今度は迎えに来たその女性をそのまま待たせ近くの男子トイレに向かった。


男子トイレのドアを開けると、警察官は一瞬たじろいでしまった。


洗面所の蛇口2つとも水が流し放しになり、あまりの勢いとその量のせいで床にも飛び散っていた。


そしてその地面には、びしょ濡れになったカオルらしき人物がうつ伏せで倒れていたのだった。


25時25分


カオルはトイレの壁に掛っている鏡をじっと見ていた。


その鏡は水アカのせいなのか、錆のせいなのかは分からなかったが、全体的に黒ずんでいた。


ただそれが自分でない全くの別人として写し出している理由にならないことは分かっていた。


自分の周りだけでなく、自分自身にも非現実的な何かが起き始めていると思った。


妻と離婚してから、彼女はどこかへいなくなり、仲の良かった取引先の友人まで消え、容姿が別人に変わった女友人はビルから飛び降り行方不明になった。


そしてわけも分からず警察署にいる自分。


疲れ果てて思考回路が停止してしまっている自分がまるで別人のように見えてもおかしくはない。


しかし、今鏡に写った自分の姿はそういう次元ではなかった。


自分は誰なのか…。


蛇口をひねり、勢いよく出た水道の水で顔を洗い、再度見直してみた。


けれどそれは気休めに過ぎず、より一層落ち込むだけだった。


まるでこれまでの記憶が急に消えてしまったかのような感覚だった。


自分の存在自体さえ消えてしまったようで恐怖に打ちひしがれていた。


25時15分


警察官は元妻の友人に質問を投げかけていた。


「彼女の夫から連絡?その前に、彼女とは誰のことを言ってるのですか?」


友人は何を今さらこの警察官は聞いているのだと言わんばかりに、少しいらついた。


「だから、彼女って言うのは私の友達のカオルですよ。その旦那さんから国際電話がきて、自分はすぐ迎えに行けそうもないから代わりに行ってもらえないか?って。」


警察官は困惑し、その言ってる意味を理解できないでいた。


「先程あなたがお会いになった方もカオルと言ってました。事情聴取で身元確認もしましたが、おかしな点は特にありませんでした。声も外見も完全に男性ですし、本人の言ってることも筋が通っていた。」


友人は逆に自分が疑われているような気がして、さっきよりも一層いらつきだした。


「私が嘘をついてるって言うんですか?誰が知らない人間を迎えに来るって言うんですか。むしろ怪しいのはその男なのに。大体、さっきここに来る直前で話したんですよ私は。あの話し方はカオルだったんだから。隠さないで、早くカオルに会わせてよ。」


その警察官は色んな人間を相手にしてきた経験があった。


泥酔者や薬物依存症者や暴力団関係やそれに準じた輩。


精神異常の人間が起こした事件も数多く見てきた。


しかし、今回のことは何かが違う、そう感じていた。