スマホの待ち受け画面に家族やパートナーとの画像をつかっている人は多い。そんな写真を見ると羨ましくなってしまう。
私は気分によって時々替えるのだけれど、オットの画像であることが多い。
人は他人の待ち受け画面が家族や夫婦の画像であると
『あ、ツーショット?』とか
『どこどこへ行ったときに撮ったの?』と盛り上がる。
けれど私のスマホの待ち受け画面がオットのものであるとわかったとき、スルーするか、一瞬何とも言えない表情を見せてそして何も見なかった事にするようだ。

なぜだろう。私がオットの物を持っていたり遺骨を大事にしている事をなぜヨシとしてくれないのだろう。

色んな人が故人の話をする。例えば亡き祖父母やご両親の話。
そういった思い出話を懐かしそうに、或いは誇らしそうにしていると周囲は温かな柔らかい視線を向け頷く。
そしてやはりスマホの待ち受け画面が亡きご両親と一緒に撮ったものであったりすると『これはお母さん?』と話しかけるのだ。
そして皆、時折Facebookなどに亡きご両親の思い出や武勇伝や伝説的エピソードをポストする。そして皆それには100%ポジティブなコメントを寄せる。

が。私がそういう事をしようものなら
『あまりネガティブな事を書くものではない』とか『いつまでも縛られてないで早く次のステップに』と言われる…のでしていない。
またやはり多くはスルーだ。それはそれで構わない。

けれど私は別にネガティブな事は書いていない。事実をそのままに、オットがどれほど素敵な人だったかを示す思い出やエピソードを書いただけだ。

私はオットの事を語ることすら許されないのか。誰とも話せないのか。オットという宝箱を開ける時はひとりこっそりでないといけないのか。

なんで私だけ。
なんで私だけ。
そんな僻み根性が捨てられない。

『ひとりでも人生を楽しんでいる人はいくらでもいるよ』
などとトンチンカンな事を言う輩もいる。
私が今『ひとり』でいるのは選択ではなく、無理矢理引き剥がされた結果なのに。

オットの事を話したい。
唯一気兼ねなく?話せるのはカウンセリングのときだけだなあ…。