母からLINEでメッセージが届いた。

使い始めて2年、ずいぶん慣れて画像やスタンプも送ってくる。

 

母は前回のメッセージで、余計なことを言って私を怒らせたかな、と気にしていたようだった。

「Tさんが亡くなって悲しいだろうけど、お母さんだって一緒よ。お隣のご夫婦がいつも一緒に出掛けていくのが羨ましい。けど先に逝ったのがもしお母さんだったら、お父さんは料理も出来ないし社交的じゃないし、もっと悲惨だったかな、と思うようにしているの」

母はそう言ったのだった。

「お母さんはGeminiが元気で明るく過ごしてほしい、そう思っているの」

 

母は私がオットを亡くしてから本当に長い間地雷を踏み続けてくれた。色々気を遣っていたつもりなのだろうけど所詮わからないものはわからないのだ。それが父が倒れた直後、生死の境を何度もさまよった頃、母は私の友人にこうつぶやいたという。

「やっとあの子(私)の気持ちが少しわかったような気がします」

 

父が元気だった頃、母は私に向かって

「そんなのお父さんお母さんだって今は元気だけど、誰だって何があるかわからないんだから」

「誰だって死ぬときは一人よ?」

“瀬戸際”に立ったことのない人の言うことだと思った。

私はオットが入院し、その病状があまり思わしくない、とわかった時に書きなぐりではあるけれど“終活”をした。

もし私が通勤中に交通事故で死んだらオットはどうなるのか、と自分のもしもを考えてのことだった。交友関係の名簿、銀行口座、クレジットカード詳細、オットと私の職場の連絡先、などである。それら記したものを封筒に入れ、封筒に「私に何かあった時」と書き、それを当時居候していた実家においてある自分の荷物の中に入れた。

そう、当時の私は本当に瀬戸際に立っていた。切羽詰まっていたのである。

母はそうではなかった。

だから父が倒れたとき、あれほど「もしもの時に対応できるようにしておいて」と言ったのだけれど「縁起でもない」と何もしていなかった。

健康保険証、銀行通帳、家の権利書、印鑑、等々重要なものが入った金庫の開け方すら母は知らなかったのだ。

母の頭には80歳に手が届くかと言う父の死がまったく身近ではなかったのだ。

 

今“同じ”未亡人という立場になった母は「一緒」という言葉を使った。

一緒ではない。

年代も違えば、生前の夫婦の関係性も違った。

人によっては

「お母さんはお年を召してから、それでも長寿の時代としては早い?(父は79歳で亡くなった)時期に長く連れ添った連れ合いを亡くしてお気の毒」

「Geminiはまだ若いから次も見つかるし大丈夫だけど」

という事を言う。

私からしたら79歳で亡くなるというのは普通だと思うし、(嫌な言い方だけれど)母はそう待たずとも父に会える。

私は若いから、と言われるがもう50に王手だ。何が若いものか。次も見つかる?そんな奇特な人間、モノ好きがいるものか(苦笑)一体なにが“大丈夫”?

私はもし父と同じ年齢まで生きるとしたら約30年。独り。ぞっとする。オットに会えるまで30年。

 

結局そんなものなのだ。

立場が違えば理解なんて出来なくなる。想像できなくなる。未亡人同士の母と私でさえそうなのだ、パートナーのいる人に何がわかるだろう。仕方ないことなのだ。

 

母が言った「元気で明るくいてくれたら」

これは色んな人に言われる。

時々。辛い。

元気で明るくいなきゃいけないのか。普段は頑張るけれどやっぱり無理が来る。

元気で明るく。

そしたらみんなが満足してくれるんだろうなあ…。

日本を逃げ出した理由がそうだった。

I can't meet everyone's expectations!!!

皆の期待には応えられない。

いつも心でそう叫んでいた。

だから強くあろう、強くあろう、と思い、何にも傷つかない、何も感じない心を持ちたい、と思うのだ。