インターネットに、日本と欧米における延命治療の違いについての記事があり、私はそれを読んでいた。
私は今は交通事故の患者さんに治療を行っているが、いずれ緩和ケア(慢性疾患あるいは疾病末期の患者さん)に関わりたいと思っている。そのための勉強も少しずつだが進めている。
だからそういった類の記事は目にしたらほとんど読むことにしている。そうすると医療関係者と家族、そして患者本人の色んな違った角度からの意見を目にすることができる。

それが事実として全てに当てはまるかどうかはしらないが、欧米では余計な延命治療をしない。食欲が落ちてきたら食べられるものを食べられる量だけ与え、そして自然に「餓死」という形で死んでゆく。
日本では賛否両論あるが、胃ろうという方法を取る場合も少なくない。もちろん胃ろうによってほぼ普通の生活に戻れる人もいるのは事実だ。が、それは寝たきりの老人に当てはまらない事は確かだろう。

私の父がカナダで倒れた時、ERでもICUでも確認された。「延命治療はどうするか」と。
私は母に尋ねる事はしなかった。母に判断できるとは思えなかったからだ。私は「一切しないでくれ」とドクターに伝えた。そしてその後LINEで日本にいる兄に「延命治療を断りました。勝手に決めてすみません」と伝えた。兄は「それでいい。ありがとう」と返信してきた。
父は何度も三途の川を渡りかけたが、どうやら祖母が「お前が死ぬ場所はカナダではない」と押し戻したらしく帰国できる状態まで持ち直した。本当を言うと病院側は連れて帰ることのリスクを考え(たのか、儲けにならないカナダの社会保険扱いの患者ではなく無制限の海外旅行保険契約者で全額ガッツリと請求出来るから手放したくなかったのか)退院許可をなかなか出してくれなかった。自己責任だから、と何度も主張し、ようやく…。

「お母さんはこちらでお待ちください」と病院スタッフが言うので(私もそのほうがいいとは思ったが)私は母を別室に残し一人、ドクターたちを含む病院関係者数人に取り囲まれた中で「帰国途中に何かあっても一切の責任を問いません」と書かれた誓約書にサインをした。

一時持ち直した父だったが、ある時期を境に急激に弱っていった。ちょうど私はその時期日本に帰ったのだけれど私は母に「もしもの時の延命治療」の話を切り出せずにカナダに帰ってきてしまった。なぜか。

母に何度父の病気のことや病状を話しても理解しようとせず聞き入れなかったからだ。父の病気は100万人に2-3人と言われるくらい珍しいもので、それが原因で二次的にクモ膜下出血が起こった。大出血を起こしたわけではなく、じわりじわりと進んだものだったらしい。それで高次脳機能障害…いわゆる認知症に似たような後遺症がのこった。が、父は家族や親戚、友人らの顔はしっかりと覚えていた。が、ペンを渡してもタオルを渡してもそれが何であるかは理解できていなかった。それでもリハビリは行われ、一時はベッドに縛り付けられていたのだけれど歩けるまでに回復した。そのせいで…と言っては申し訳ないが…その回復のせいで母は「父は良くなる」と錯覚してしまったのだった。高次脳機能障害は治らない。けれど時々クリアなことを話すので良くなると錯覚する。そして父の病気は見た目には全くわからない。そのせいで父の問題は「認知機能の問題」と「弱った足腰」だけだと母は思ってしまっていた。もちろん病気のことはこちらが嫌になるほど……こちらも言いたくて言うのではない。けれど何度言ってもすぐに「希望」で上書きしてしまう母に対して何度も説明した。

認知機能はあくまでも症状、であって、病気の根本ではない、と。父の病気は難病で治らない、治療方法もない、と。

時々自分がものすごく意地悪な冷酷な娘のような気がして嫌気がさした。

私はこう見えても医療を学んでいる。もちろんドクターには程遠いが。でも一般の人よりはかなり理解できている。もちろん母よりも、兄よりも。父の主治医も母でなく私と話をしたがった。なぜなら理解が早いし、私から出る質問は的確な質問だったからだ。

とりあえずそういう状況だったので、私は母に「いざとなった時の延命治療」の話を出来ずにいた。

そしてとうとう…2018年の2月。その時はやってきた。私がカナダに戻って約一か月経った頃だった。

母が言った。「お父さん、食べへんのさ(食べないの)」

その時父は病院ではなく施設にいたのだけれど、車いすに座って食事室で他の人たちと一緒に食事をとっていた。食欲は少しずつ落ちていた。が、ある日突然いきなり食べるのを止めてしまった。母はなんとか食べさそうとスプーンで食べ物を口に運んだが、父は唇を固く閉じ、無理に入れても舌で押し返してしまう。

「お父さん、食べて。食べやなあかんって」

母はなんとか食べてもらおうと試みたが無駄だった。

母はさっそく私にそれをLINEで伝えてきた。

私は…冷たいと思われるかもしれないが…いや、冷たいのだが

「ああ、父は無意識に知っているんだ。もう自分の身体は“食べ物はいらない”という事を。だから父は食べるのをやめたのだ」

そう思った。

母は続けた。

「それで点滴しようと思って」

「ちょっと待って!」

私は思わず言った。

「お母さん、お母さんはお父さんと元気な時、もし何かあっても延命治療はしないって話し合ってた、って言ったよね?」

「でも!お父さんあのままやったら干からびてしまう」

当然、と言うように反論する母に対し、私はさらに重ねた。

「点滴ってお母さん、そんな点滴だけじゃ人間の身体なんて長く維持できないよ?さらに高濃度の栄養、それから胃ろうって進んでくんだよ?そうするの?それでいいの?」

母は困ったように

「…そんなん…そんなこと言われたって…私難しいことはわからん…」

私はため息をついた。

父がこうなってから母は決断をしなければいけない時「そんなん、私わからん」と逃げる。もちろん母の年齢的なものもあるのだろう、でもそれだけではなく、母は今まで父になんでも相談して決めて来た癖が身についている。独りで決断できないのだ。私もオットと二人でなんでも相談して決めて来た。が。母には兄と言う息子や私と言う娘がいる。そして自身の兄弟もいる。誰かにいつも相談できたのだ。私とオットはずっと二人で決めて来た。何かあったら相談し、そしてお互いにお互いの責任を持とう、と話していた。だから私はオットが病気で倒れた時、自分で何もかも判断しなければならない局面がたくさんあったがそれは私はオットの妻だから、という責任感と誇りのもとに決めて来た。

母にはそういう習慣がなかった。

「そんなん…そしたらどうしたらいいの?」

母は心細そうに、困ったように、少し苛ついたように私に言った。

「そんなん、よう決めやん(決められない)…」

私は小さくため息をついた。

この調子で母が決めては延命治療をしてもしなくても自分の決断に後悔するのが目に見えていた。

「お母さん」

私は意を決して言った。

「お母さんが決められんのやったら、私が決めるよ」

私が決めればあとどうなっても、母は“私”という恨む相手が出来る。そのほうがどれほど楽かもしれない、自分を責めるより。

「お母さん、それでいいね?私明日にでもドクターと電話で話して伝えるよ。〇時ごろドクターに電話する、とお伝えして」

「ちょっと待って。あんたそれでいいの?あんたが決めてもいいの?」

母は母なりに、自分がまるで大事な局面から逃げるようで迷っていた。

「いいよ。じゃあ明日ドクターに電話するから」

そういって私はLINEを切った。

元々自分の勝手で、相談もせずに勝手に飛行機のチケットを取ってカナダに来た身だもの。オットが亡くなった時はずいぶん悲しませてしまったし、その後も心配をかけてしまった。親は無力だ、ということを感じさせてしまった。孫の顔どころか自分の顔すらろくに見せないようなことになってしまった。

恨まれてもいいか、と思った。

 

が。

父はそうさせなかった。

まさに私がドクターに電話をする2時間ほど前に兄からLINEが入った。

「お父さんが意識不明になった。今から施設に向かう」

ちょうど私はその時職場にいた。同僚が「What's up?(どうしたの?)」と聞いてきて私は一言「Well.... My dad is in coma...(父がこん睡状態なの)」と答えた。

そういう状態なのに私は反射的に思った。

“父は私に最後の一言を言わせなかった”

“父は母が私を恨むようなことがないように、私に後悔をさせないようにした”

そんなことをぼんやりと考えながら私は「どうしよう。今すぐ帰るべき?」とおかしなところで迷っていた。

もう誰も看取りたくなかったのだ。

私はその時「最後の連絡」が来るまでカナダに居よう、と思っていたのだった。

この期に及んで逃げようとしたのだった。

 

とりあえず父に延命治療をすることは避けられた。もちろんそこで人工呼吸器をつけるとかそういう延命措置も出来たのだ、が。施設のドクターが母に言ったのだ。

「奥さん。ご主人きっと今そんなに苦しくないです。もうこのまま逝かせてあげましょう」

と。

兄が隣にいた事もあるだろう、母はその提案を最善策として受け入れた。

そして父は…結果的に私が母とともに看取ることとなった。