雨上がりの夜道を、俺は歩いていた。
まったくこの天気みたいに、みんなしてグズグズジトジトしやがって。
ムラネコがニクショークと消えたあと、残された俺たちアワレンジャーの気持ちはバラバラだ。
これからどうするか話し合ったところで、意見が割れて収集がつかない。
終いには殴り合いのケンカになって、気まずく終わる。
やり場のないこの怒りを、一体、どこへぶつけたらいいのか。
俺は焦っていた。こうしている間にも無為に時間は過ぎてゆき、あいつがニクショークの大首領に食われてしまう(いろんな意味で)んじゃないかと気が気でならない。たとえあいつが自ら決めたこととはいえ、俺はその決断が正しいとは到底思えなかった。だから許せなかった。
雨上がりの夜道を、俺は歩いた。
濡れた路面に車のヘッドランプのオレンジ色が反射して、幻想的な模様を作り出している。俺はなんだか無性に腹が立ってきて、そこいらの店のシャッターを蹴り飛ばした。
ガッシャーーン!というデカい音がして、それに驚いた一匹のねずみが怯えて物陰に隠れた。
ちくしょう・・・どいつもこいつも・・・。
俺の足は、自然と繁華街の通りから一本裏道に入ったところにある、とある場所に向かっていた。ジーンズのポケットに両手を突っ込み、背を丸め俯いて歩いていると、数メートル先の路上から懐かしい声が聞こえてきた。
「あら、なんだか久しぶりじゃない。じゅりいぬちゃん・・・♪」
顔を上げると、そこには赤いマントを身に纏い、優しく微笑む美しい人の姿があった。
『織田木瓜』という家紋がモチーフらしいこの店の朱色の看板を見ていると、何故だか心が和む。そう、俺は以前から、心に迷いが生じるとここに来ていた。何故だか吸い寄せられるようにここに足が向く。前世とかそういった見えない大きな力が、俺を導いているような気さえするのだ。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちに来て座ったら。どうせ今夜はまだ、お客さん誰も居ないんだし」
優雅な身のこなしでカウンターの仕切りをくぐりながら、ママはそう言った。
俺は入ってすぐのスツールに腰を下ろした。ここが俺の指定席。来れば必ず、ここに座るのが習わしだ。
「何作ろうか?」
金色にコーティングされたドクロを型取ったグラスを片手に、ママはそう俺に声をかけた。
「そうだな・・・・ママに任せるよ」
俺の言葉を聞き、フッと笑いながらママは答えた。
「・・・わかったわ。今夜のアンタにピッタリなの、作ってあげる。」
カウンターに両肘をつき、腕を組むようにしてもたれかかる。ママがお酒を作る、氷やグラスやマドラーなんかが触れ合う音が聞こえてくる。柑橘系の香りが鼻腔を刺激して、俺はなんだかとても懐かしいような気分になった。
「はい。どうぞ」
ぼんやりしていた俺の目の前に、ママはグラスを置いた。
雪の結晶のような輝きが、グラスの縁を彩っている。
「ソルティドッグ。しおらしい犬・・・・どう、ピッタリでしょ?」
俺は思わず鼻で笑った。
「悪くないな」
そしてママにも一杯ハイボールをご馳走すると、乾杯した。
「で、どうして今日はそんなにしおらしいの?まぁあなたの場合、ここに来る時はだいたいしおらしいんだけどね。だけど今日は何だか、特別しょっぱい顔してるじゃないの」
「そんなことねぇよ」
俺は一気にカクテルを飲み干した。
「あらあら、そんな飲み方しちゃって・・・」
ママは俺が干したグラスを手に取ると、再び同じものを作り始めた。そして手元から目を離さずにこう言った。
「アンタが欲しがっているものがここにあるかどうかはわからないけど、アンタがここに来るときはいつも、何かを探してる時だってことくらい、アタシにはわかるわ。言いたくなければ言う必要はないけど、今夜のアンタの抱えてるものは、今までよりもっとずっと、大きいようにアタシには思えるのよ」
この人はいつだって、俺の中身を見透かしている。俺はこの人のそばにいると安心する。だが同時に怖いとも思う。俺の知らない、母のような、そして時に父のような、大きな何かで俺を包んでくれる。俺は誰かに頼る自分の姿を、認めたくなかった。だから普段は、滅多にこの場所に近づくことはない。この人に包まれて安堵するような俺になりたくなかったから。
「仲間が・・・・・いなくなったんだ」
自分の意思とは別の何かに引きずられ、俺は話し始めた。
カウンターの向こう側で、酒を作る手元から目を上げ、ママは静かに俺を見た。
俺は続けた。
「大切な仲間が、敵に連れ去られた。俺達が止めるのも聞かず、あいつは俺達に背を向けて、行ったんだ」
俺の目の前に、二杯目のグラスが置かれた。俺はそれに一瞥もくれずに話し続けた。
「俺はあいつの判断が正しいとは思えない。あいつは感情に流されたんだ。だから冷静になって欲しかった。俺達の元を去るなんて、あいつがいなくなるなんて、俺は信じない。いや、認めない」
カウンターの向こうで、静かな衣擦れの音が聞こえる。カチッと音をさせライターに緑の炎を灯して、ママは煙草に火をつけた。
「あのままじゃ・・・あいつは喰われちまう。あの女は危険だ・・・あんな危険な女は初めて見た・・・あいつの纏う生肉のにおい・・・あれはハンパねぇ」
気づいたら小刻みに震えていた。ニクショークの大首領の姿は、俺に首を捻られていとも簡単に殺された半兵衛の最期を連想させた。俺はあいつが憎いと同時に、恐れてもいたのだ。
俺は両手を目の前で組み、無意識のうちに震えを止めようと必死になっていた。しかしそれは上手く行かなかった。カウンターの向こう側から、握った俺の拳の上にそっとママの両手が重ねられた。
「どんな事情か知らないけど、アンタのお仲間は自分の意思でその女の元へ行ったんでしょ。だったらそれでいいんじゃないかしら」
ママが話すと、かすかに煙草のにおいがした。
「きっと彼は、自分のすべてと引きかえに、彼女と一緒に去ったのよ。きっとそれは辛い選択だったんじゃないかと思うわ。何かを得るには、何かを手放さなければならないものだから・・・」
そう言うと、ふと顔をめぐらし、店の奥に飾られている写真立てに目をやった。
まだホトトギスをちょん切る前の男前だったママが、おかっぱ頭の男性と一緒に写っている写真だ。
ママは続けた。
「じゅりいぬちゃん、アンタの気持ちはよく判る。でも人生にはね、出会いがあれば別れもあるのよ。それは哀しいけど、目を背けることのできない現実。アタシたちにはどだい、どうすることもできないことなのよ」
写真から俺に目線を戻し、ママは言った。
「アンタの過去は、アンタの過去。それは誰にも関係ない。アンタが自分で噛み砕いて飲み込んで、消化して、ウンコにして出しちゃわなきゃならないのよ。彼には彼の生き方がある。それを忘れちゃ駄目」
俺の胸に鋭い痛みが走った。彼には彼の生き方がある―――――――。そうか、俺はあいつに、俺のエゴを押しつけていたっていうことなのか・・・?
「今はわからなくても、いつかきっとわかる日が来るわ。とりあえずお酒、折角作ったんだからまずくならないうちに飲んでね」
気づけば手の震えは止まっていた。ママは俺の拳を包んでいた手を離すと、カウンターの上に置かれていた灰皿から、灰の長くなってしまった煙草を取った。そして軽く俺に背中を向けて、胸いっぱいに紫煙を吸い込み、細く長く吐き出した。その背中はなんだか、泣いているようだった。
カランカラン・・・と音がして、店のドアが開いたのはその時だった。ママがとびっきりの笑顔で振り返り、いらっしゃいませと声をかける。店に入ってきた誰かの気配に、俺も反射的に振り返った。
息を呑んだ。同時に、入ってきた影も俺を見て一瞬静止した。だがそれは次の瞬間、何事も無かったかのように店の奥まで歩いて行き、一番端のスツールに腰掛けた。
偶然にも、それはムラネコだった。全身黒ずくめの、眼光鋭い俺達の仲間。アワレンジャー6番目の戦士だ。
お客さん、初めてよね?おつまみはあまり置いてないけど、お酒ならなんでも作れるわ。好きなの言ってみて頂戴。そうママが話しかける。何でもいい。とにかく飲みたい気分だ。適当に作ってくれ。ぶっきらぼうにムラネコが答える。俺はどうしたものかわからず、そのやりとりを信じられない思いで見つめていた。
やがてママは何やらきれいなルビー色をしたカクテルを作り上げ、ムラネコの前に置いた。これ、今夜のお客さんにピッタリだと思うの。今即興で作ったんだけど、きっとおいしいと思うわ。カクテルの名前も、今アタシが考えたのよ。聞きたい?このルビー色をしたカクテルの名前はね――――。
プルルルルルル・・・と電話が鳴った。あらご免なさい、ちょっと失礼するわねと言って、ママは電話に出た。ひとしきり何かを話した後、受話器を置き、俺たち二人を見てこう言った。
「ごめんなさい。うちの常連さんがこの先の路上で酔いつぶれて寝ちゃったらしいのよ。アタシちょっと様子見てきていいかしら。お店はちゃんと、『準備中』にしておくから。あ、あとお酒が欲しかったら、セルフサービスで何でも飲んでいいわ。たぶん、すぐに戻るから」
そう言うが早いか、カウンターを跳ね上げてママは俺の横をすり抜けた。ドアまでの短い距離でママは俺の顔を覗き込み、目配せをしてから出て行った。俺は悟った。電話がかかってきたのをいいことに、ママは俺達に気を利かせたのだ。恐らく俺達の様子を見て、何かを感じたんだろう。いつものことだが、まったくママには驚かされる。
バタン、とドアが締まりママが出て行ったあとの店の中は、有線からボリュームを絞って流れるロマン歌謡の旋律が聞こえてくるだけで、それが余計に静けさを引き立てていた。ちらっとムラネコを盗み見ると、奴は黒い顔の中に光る目を俯かせ、ママの作ったルビー色のカクテルを飲んでいた。俺は一度は目を背けたが、やはり話さなければいけないと思って、声をかけた。
「お前何やってんだよ」
俺の声が聞こえていないはずはないが、ムラネコは我関せずを決め込んでカクテルを舐めている。俺は腹が立った。
「無視すんなよ。俺が、俺達がどれだけお前のことを心配したと思ってるんだ?」
「心配してくれなんて頼んだ覚えはない」
静かにグラスを置いて、ムラネコは顔を上げた。
「俺は俺の意思で出ていったんだ。もうお前たちの元へは戻らない」
「・・・・お前、今何て・・・・?」
「俺はもう戻らないって言ったんだ」
ハンマーで頭を殴られたような衝撃だった。こいつは・・・文字通りあの女に虜にされてしまったのか??
いつも冷静で、どこか斜に構えて物事を見ていたムラネコ。戦略会議で俺とねこおうじの意見が分かれると、いつも客観的な解釈で俺達にヒントを与えてくれていたあいつが、今はまるで肉と女のにおいに盲いたただの一匹の雄猫に成り下がってしまっている。
こんなの・・・俺の知ってる奴じゃない・・・。
「ムラネコ、お前・・・・・・!」
思わず立ち上がっていた。右の拳を握っていた。店の突き当たりまで飛んでいって、ムラネコの胸ぐらを左手で掴み引き上げた。ムラネコは抵抗すらしない。されるがままだ。俺は握りしめた右の拳を振り上げたまま、無抵抗なムラネコを殴ることができず、そのままスツールから引きずり下ろし投げ捨てた。
床に崩れ落ちてもなお、ムラネコは無抵抗だった。顔を上げて俺を見ることもせず、壁にしなだれかかったまま床の一点を見つめ微動だにしない。俺は情けなくなって、思わず吐き捨てた。
「本当にいいのかよ、いぶねこのこと。お前に奴を置き去りにできるのかよ」
一瞬ムラネコが、息を呑むのがわかった。
「本当にあいつを、見捨てることができるのかよ。お前にとってあいつは、その程度の存在だったのか。あんな肉食女の方が、いぶねこより大事だっていうのかよ・・・・・・・」
鼻の奥が熱くなるのがわかった。おかしい。こんなのおかしい。俺は今までの人生の中で、一度しか泣いたことがない。半兵衛が死んだ時だって、俺は涙を流すことができなかった。なのに何だ、この感覚は?
俺は思わず背を向けた。誰かに泣き顔を見られるなんて考えられなかった。そんな俺の後ろ姿に向かって、ムラネコがゆっくり、訥々と話し始めた。
「俺さ・・・あいつを止められるかもしれないと思うんだ」
背後から、身じろぎする音が聞こえる。
「いや、止めようと思う。何としてでも。それはきっと、俺の罪滅ぼしなんだ」
体勢を立て直し、壁によりかかって座ったまま、むらねこは続けた。
「本当の敵は、あいつじゃない。もっと恐ろしいのがいる。お前たちはまだ知らない。いや、知らなくていい」
ムラネコの言葉に、俺は思わず振り向いた。
「もっと恐ろしいのって・・・・?なんだよそれ?!・・・もしかしてお前、一人でそいつと戦おうとしてるんじゃないだろうな?!」
「・・・・わからない。俺もどうしたいのか、どうすればいいのかわからない。ただ、あの男を倒して、あいつを守りたい。それだけだ」
「おい、何を言ってるんだ?あいつを守るって・・・・しっかりしろよ!あいつは生類喰いの、俺達の敵なんだぞ!」
ムラネコはまっすぐに俺を見上げ、躊躇うことなく言った。
「ああそうだ。わかってる」
「・・・・はぁ?わかってるだぁ??ふざけるな!わかってねぇじゃねーか!全然、わかってねぇじゃねーかよ!」
俺は再びムラネコの胸ぐらを掴んだ。そしてそのまま引き上げると、さっきは振り下ろせなかった右の拳をムラネコの左頬に命中させた。今度もやっぱりムラネコは無抵抗だった。俺に殴られた左頬が、みるみるうちに腫れ上がった。俺の右の拳が、ヒリヒリと傷んだ。同時に胸が、キリキリと傷んだ。
「・・・・ごめん。みんなには、本当に申し訳ないと思ってる。特にいぶねこ・・・・・あいつのことは本当に・・・・・。頼むじゅりいぬ、あいつの面倒を見てやってくれ。俺の代わりに・・・」
ムラネコの目から涙が一筋こぼれ落ちた。そんな、ありえねぇ。ありえねぇだろ、こんなこと・・・。こんなムラネコ、見たくもない・・・・。
「バカなこと言ってんじゃねぇ・・・・・・俺はもうこれ以上、仲間を失いたくねぇんだよ。危険を承知でお前を一人で、一人で行かせるわけにはいかねぇんだ。何としてでもお前を取り戻す。それから、そんなジメジメしたお前も、二度と見たくねぇ。・・・・・・・・バッカじゃねーの!」
吐き捨てるようにそう言うと、俺は再びムラネコに背を向けた。そして尻のポケットから札を引っ張り出し、カウンターの上に無造作に投げた。肩越しに一度ムラネコを一瞥したが、振り返る勇気はなかった。俺はそのまま、店を出た。
「ごめんなさいねー、なんだか手間取っちゃって・・・・・。あら、大丈夫?もしかしてあの子とケンカしちゃったのかしら?」
店に戻ってきたママは床に倒れ込んでいたムラネコに手を貸し起き上がらせると、スツールに座らせた。あらあら、かわいい顔が台なしねぇ、まったく、じゅりいぬちゃんったら昔からすぐに手が出ちゃうのよね。直情径行型っていうのかしら、まぁいわゆる、単純バカ?・・・・でもそれがあの子のいいところでもあるのよ、嘘がつけないってことだから、許してあげてね。
そして、アイスペールの中の氷で作った氷嚢を、ムラネコの腫れた左頬にあてがった。
世の中にはね、いろんな価値観があるわ。そしてそれぞれの正義に基づいて、人は生きているんだと思うの。じゅりいぬちゃんにはきっと今のあなたの『正義』が、理解できなかったのね。でもね、きっと大丈夫。あなたが信じるものを、貫き通せばいいと思うわ。いつかきっと、じゅりいぬちゃんも分かってくれる時が来るはず。だからあなたも、もう一度自分の『正義』について、考えてみるといい。きっと答えが見つかるわ。みんなにとって、一番いい答えがね・・・・。
黙って耳を傾けているムラネコを優しく見つめ、微笑みながらママは続けた。
そうそう、このカクテルどうだった?けっこうイケたでしょ?わりと自信あったのよ。入ってきたアンタの顔を見るなりすぐに閃いたの。まだこのカクテルの名前、教えてあげてなかったわよね?聞きたい?これはね・・・・
『キャットウォーク』って言うのよ。
後日、ムラネコからこの話を聞いた時、俺の脳裏に狭い狭い橋の上を慎重に渡る黒猫の姿がありありと浮かんだ。それはまるで、大きな危険に一人立ち向かおうとしていた、あの時のムラネコの姿そのものだった。まったく、ママには完敗だ。彼女は何でもお見通しだし、気づけば彼女の蒔いた種が、心の深いところでいつの間にか芽吹いている。こうやって俺はこれからも、道に迷うたびに彼女の元を訪れるのだろう。そしてその度に、あの人の手のひらの上で転がされ続ける。もともと他者の介入を快く思わない俺ではあるが、彼女だけは特別だ。それはきっと、あいつにしても同じ事なんだろう。狭くて長いキャットウォークを渡り終わった頃の、どうしようもない意地っ張りなあの黒猫にとってもな・・・。