外へ出るともう薄暗かった。街は普段の賑わいで、まるで今までのことが何もなかったかのように華やいでいる。この街を去る前に、俺には行く所がある。馴染みの裏路地の、寂れた雑居ビルの一室に通じる扉を、俺は開けた。
埃と黴の匂いが鼻を突く。淀んだ空気がかすかに動く気配がする。うっすらと塵の積もった床に足を踏み入れると、低い息遣いが聞こえてくる。俺はカウンター席の奥の方の、暗がりに目を凝らした。
するとそこには、目を疑いたくなるほどに変わり果てたママの姿があった。白い着物は煤け、化粧もせず、髪は乱れ放題で、それは本当に、見るも無残な姿だった。
俺は息を呑んで立ち尽くした。しばらく言葉が出て来なかった。やがてママがゆっくりと顔をあげ、俺を見留めた。
心が荒んでいても、何か咎を抱えていても、いつも容易には触れさせぬ気高さをまとっていた筈だった。それが、まともに目も開けていられないほどに酔いつぶれ、酒のにおいを辺りに撒き散らして、ただ其処に在るだけのものになってしまっていたのだ。あまりのことに俺は、絶句したまま、その場に固まっていた。
「・・・・・何よあんた。あたしを笑いに来たの?」
薄く開いた左目で、眩しそうに、ママは俺を見上げた。この世の全てを疎むような、そんな声だった。
俺は何も言えなかった。唯一の支えであった母親が死に、自暴自棄になった伊達ママを見たくはなかった。だがこれが現実だ。目を背けてはいけない。
俺は親の顔を知らない。生まれてこのかた、親という存在を感じたこともない。だから今の伊達ママの感じている辛さがどれほどのものなのか、実感することは出来ない。だが、想像することはできた。俺にとっての恩人とも言える、里の長老や半兵衛。そんな人たちに抱いていた感情がもしかしたら、親に対するそれに近いのかも知れないと俺は思った。失くして苦しいもの。狂おしく求め泣き叫ぶもの。知らず知らずに封じ込めてきたが、俺の中にも確かにあったはずだ。
「ママ・・・」
俺は何か言おうとして、しかしその先を続けられずにまた押し黙った。低く殺した嗚咽が、カウンターに突っ伏してそっぽを向いているひとの、全身から聞こえてくるようだった。くぐもったその声はあまりに悲痛で、俺は慰める言葉を持たない。思わず歩み寄り、そっとその肩に触れた。
びくん、と身体を震わせた次の瞬間、はっとする強さでママは俺の手を払いのけた。
「やめて!同情なんてして欲しくない!あんたの言うとおり、あたしはあの人を許したのに!やっと許して、判り合えたのに!なのにやっぱり失った・・・・・失ったじゃないの!!」
俺と目を合わせずに、ママはそうまくし立てると、体ごと俺に背を向けた。激しく震え、涙に咽ぶその背中は、とても、とても小さく、頼りなげに見えた。
俺は振り払われた手を下ろすことなく、再びその震える肩に置いた。今度はさっきよりも、力を込めて。
案の定、さらに強い力で振り払われた。だが俺はやめなかった。その震えを止めたくて、俺はママの背後から、そのままの姿勢で、両腕を回して抱きすくめた。
一瞬、時が止まった。腕の中で、ママが身体を硬くするのがわかった。でもそれはほんの一瞬で、次の瞬間には俺はまた伊達ママの反撃を食らっていた。
「やめてよ・・・・・!そんなことしないで!同情なんていらない!もうやめて!」
そう泣き叫び、俺の腕を振り払おうとする。だが俺はやめなかった。暴れる伊達ママをさらにきつく、腕に力を込めて、抱きしめた。
「あんたの言ったことなんて・・・・・まともに取るんじゃなかった。あたしはお母さんを許して、受け入れて、幸せになれたけど、今は後悔してる。あのままあのひとを、お母さんを、お母さんの本当の気持ちを、知らずにいられたらよかったのにって・・・。憎んだまま死んでくれたら、よかったのにって。そしたらこんなつらい思いしなくて済んだのに・・・・・天国から地獄に突き落とされて・・・もう立ち直ることなんてできない。・・・あんたのせい、あんたのせいよ!」
俺の腕に長い爪を立て、ぎりぎりと力を込めながらママは叫び続けた。俺は同じ姿勢のまま首を横に振った。ママの髪が頬をこすってくすぐったかったけれど、そんなことは気にならなかった。
「それは違う・・・・それは違うよ。もし、もしも、お母さんを憎んだまま、許さないまま永遠の別れが来たら、あんたはきっと、もっと自分を責めたはずだ。それこそ救いがたいくらいに・・・・。でも、あんたはお母さんを許した。受け入れたんだ。幸せだったんだろう?それでいいじゃないか。よかったじゃないか。少なくともお母さんは、救われたはずだ。」
ママの身体が震えるたびに、振動が俺の胸に伝わった。まるで自分に言い聞かせているかのように思えて、何故だか鼻の奥の方が熱くなるのを感じた。・・・・おかしいな、最近の俺、どうかしてる。
それまでかたくなに俺を拒絶しようとしていたママの身体から、少しだけ力が抜けた。そして一つ大きく息をつくと、ママはこう言った。
「そんなわけない・・・・・。あの人が幸せだったなんて・・・・そんなわけ・・・・ない」
「どうしてわかるんだよ」
「わかるのよ。だって、あたしはあの人の子よ。あの人に子供の頃殺されかけた、あの人の実の子よ。あの人はあたしを殺したいほど憎んでた。だから幸せだったはずなんてない。ないのよ・・・・」
伊達ママの言葉を聞いて、俺はやっと理解した。このひとの抱えている昏さの理由を。
だから俺はわざとそれを吹き飛ばすように、はぐらかすような言葉を投げた。
「・・・俺に言わせりゃちゃんちゃらおかしいぜそれ。俺なんて親に捨てられたんだ。育ててもらっただけマシじゃねーの」
「野良犬のあんたと一緒にしないで」
「一緒だよ。今のあんたは野良犬よりたちが悪いぜ」
そんな会話を通して、ようやく少し落ち着いたのか、ママの身体からは完全に力が抜けていた。いつしか震えも収まっていた。だから俺はそっと、ママの身体に回していた腕を解いた。
「・・・・・どうして、帰らなかったの」
「ん・・・?」
肩越しに少し振り向くような仕草を見せながら、伊達ママは俺に尋ねた。
「あたし、あんたを拒絶したのに。どうしてこんなこと・・・・」
確かに手を振り払われた。明らかな拒絶の合図だ。だが俺は去る気になどならなかった。むしろここに居たいとさえ思った。
「それはさ、できることをあきらめたくなかったからだよ」
「・・・できることを・・・?」
眼帯をしていない、ママの裸の左目が俺を捉えた。俺は逸らさずに、まっすぐにその目を見て答えた。
「今、俺にできることを、あきらめた時、招いた結果を知って、後で後悔したくなかったから」
「・・・・後悔、したくなかった・・・・・」
「ああ。」
ママの隣の席に座り、俺は先を続けた。
「救えたはずの命とか、伝えられたはずの言葉とか、そういうので俺、ことごとく後悔してきてるからさ。今自分にできることを、全力でしたかった。諦めたくなかった。だってさ、前も言ったけど、迷惑かもしれないけど、ママは昔の俺に似てるからさ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「彼らが生きてるうちに、俺ができることがあったはずなのに、俺が手を差し伸べなかったばっかりに、もう二度と会えなくなった。だからさ、俺、もうそういうの、やめたんだ」
「・・・・あんた・・・」
気づけば、いつのまにか伊達ママは俺の方に向き直っていた。まっすぐに俺の目を見て、俺の言葉に耳を傾けていた。
「だからママにも後悔して欲しくなかった。だからちゃんと向きあって、許してやって欲しいと思った。で、あんたはそれをしたんだろ?
お母さんの気持ち、聞いたんだろ? 良かったじゃねーか。もう二度と会えなくなる前で」
「あたし・・・・・あたし・・・・・・ほんとは・・・・・」
俺の言葉に反応して、ママは目に涙を貯めていた。俺はその涙を、とても美しいと思った。
その時、店のドアが開いて、小十郎子が帰ってきた。買い出しにでも行っていたらしく、その両手にはショッピングバッグをぶら下げていた。振り返った俺を見留め、小さく息をつきながら小首を傾げる。今は小十郎子の姿をしたしょまはむが、俺に向けた挨拶のようなものだ。
「ママ、大丈夫?」
カウンターに買ってきた品物を置き、小十郎子は声をかけた。それは司令室にいる時とうってかわって、優しい響きに満ちていた。
小十郎子の声に、ママは視線を泳がせた。そして俺と小十郎子に交互に目を遣りながら、まるで零れ落ちた何かを拾うかのようにポツポツと話し始めた。
「あたし・・・・・嬉しかった。お母さんが訪ねてきてくれて、本当に嬉しかったの・・・。でも、そんな日は長く続かなくて・・・あたしが、あたしみたいなうつけが、幸せになっちゃいけなかったんだって、そう思ったの。あたしのせいで、お母さんが死んでしまったんじゃないかって。でも・・・・でも良かったのかな。これで、良かったのかな。お母さんも、幸せだって、感じてくれてたのかな・・・・」
消え入りそうな伊達ママの背中を、そっとさすりながら小十郎子が言った。
「当たり前じゃない。あんなに幸せそうで、楽しそうなママとお母さんの顔、あたし忘れないわ」
そしてこの上なく優しい表情で、伊達ママに微笑みかけた。俺は想像した。心からの笑顔で母親に語りかける伊達ママの姿を。きっと穏やかで優しい時間が流れていたんだろう。胸いっぱいに何か暖かいものが広がるのを感じて、俺は言った。
「同感だ。きっとあのひとも、そういうだろうな。」
俺は壁にかかった赤いマントの写真を見やって、そう言った。
そうよ、あなたたちみんな、後悔のない人生を送りなさい。こころの赴くままに生きて、そして自分の人生に責任を持ちなさい。そうすればきっと、『みち』は拓けるわ。
「NOBUママ・・・・・・」
気づけば伊達ママも小十郎子も、赤い服を纏ったひとの写真を見上げていた。この二人にとっても彼女は原点なのだろう。今居るここに導いてくれ、『みち』を指し示してくれた、道標のような存在だったのだろう。俺にとっての彼女が、そうであったように。
ふと気配を感じ視線を落とすと、小十郎子が俺の横顔を見上げていた。目が合うと、覚悟を決めたような声色で、こう尋ねた。
「・・・行くのね。」
俺は小さくひとつ息を吐きながら答えた。
「ああ。」
「行き先は?」
「俺のこの手を必要としてくれる人たちのところへ。」
「そう・・・・・あなたならきっとやれるわ。」
「俺もそう思う。いや、信じてる」
俺と小十郎子のやり取りを聞いていた伊達ママが、色めき立った。
「・・・ちょっと待って、行くって何よ・・・・?!」
俺と小十郎子を交互に見上げるその表情には、不安の色が浮かんでいる。
俺はママの目線に合わせるために背中を少し丸めた。そして彼女の両肩より少し下を両手でしっかりと掴んだ。今度は振り払われないように。拒絶されないように。
「あんたなら大丈夫だ。乗り越えられる。俺がそうだったように。」
小刻みに首を横に振る。振り払うどころか、ママはその両手で俺の前腕をきつく掴み、強く揺すりながら言った。
「嫌よそんなの・・・あたし聞いてない!お母さんが居なくなってその上あんたまで・・・嫌よそんなの嫌!」
「ママ・・・」
再び取り乱した伊達ママの様子に、小十郎子が心配そうに声をかける。
「あんたまであたしを置いて行くのね・・・やっぱりあたしみたいな・・・あたしみたいなうつけ、誰も相手にしてくれないんじゃない。やっと、やっと見つけたと思ったのに・・・・やっと・・・・」
すがる両手にこめられた力は強く、きつく掴まれた腕の部分が痛んだ。しかし俺は耐えた。
「あんたの手を必要としてる人たちのところですって? 何よそれ・・・カッコつけるのも好い加減にして。一番あんたを必要としてる人がそばに居るのに、そんなことにも気づかないあんたに、あんたなんかに、何ができるもんですか!とっととどこへでも行きなさいよ!行きなさいったら!!」
そう言ってママは泣き崩れた。言葉で思いきり俺を拒絶しながら、しかし俺の腕を離そうとはしなかった。激しい罪悪感のような感情に支配されそうになる。違う、そうじゃない。あんたのそばにいて、あんたを支えることができるのは、俺じゃない。何度もそう言いかけては、その度に言葉を飲み込んだ。
何も出来ずにいる俺の隣で、小十郎子がいきなり声を荒げた。
「伊達ママ・・・・・!しっかりなさい!」
そして思い切り、ママの右側の頬を張った。
パチン、という音がした。少し拍子抜けがするような呆気ない音だった。だがその衝撃は、伊達ママを落ち着かせるのに充分だった。
「いい加減にしてよ!いつまで甘ったれてれば気が済むの?!いつまで悲劇のヒロイン気取ってれば気が済むのよ!!」
意外だった。小十郎子の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。悲劇のヒロイン。それはかつて俺が伊達ママに浴びせかけた侮辱の言葉であり、それがきっかけで一時俺と伊達ママの関係がギクシャクしたことがあった。どこまでも伊達ママを慕い支えてきた小十郎子の口から、よもやそんな言葉が出るとは予想だにしていなかった。
「こじゅ・・・」
伊達ママも驚いたのだろう。俺の腕を握っていた手から徐々に力が抜け、やがて力なく膝の上に落ちた。
はらはらしながら横に立ち尽くす俺のことなどまるでお構いなしに、小十郎子はまくし立てた。
「あたしが好きだった伊達ママはね、いつだって勝ち気だったわ。相手の出方次第で屁理屈だって何だって押し通しちゃう強さを持ってた。いつも堂々としてて、黒を白と言い張って相手を納得させてしまう強さを持ってた。なのに今のママったら何よ、いつまでもメソメソしちゃってさ、そんなの、そんなのあたしの好きな、伊達ママじゃないっ!!」
ありったけの力を振り絞り、肩を大きく上下させながら息をしている。そんな小十郎子を前にして、伊達ママは完全に沈黙した。視線はどこか宙に固定され、何かを思い出しているように思えた。
「ママにはあたしがいるじゃない。あたしがついてるじゃないの。あたしは・・・・ママがホトトギスをちょん切るずっとずっと前から、ママだけを見てきたのに。ママだけを支えて生きてきたのに。なのにダメなの?ママ、あたしじゃダメなの?あたしじゃママを支えることはできないの?一緒に生きていくことはできないの・・・・?」
俯く小十郎子の眼から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。カールした髪が幾房か、大きく開いたドレスの肩のあたりを滑り、泣いている小十郎子の横顔を隠すかのように、はらりと落ちた。
「小十郎子ちゃん・・・・・・!」
それまで腰掛けていたスツールから立ち上がり、伊達ママは小十郎子を掻き抱いた。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい小十郎子ちゃん・・・・あたしったら、あたしったらなんて馬鹿だったのかしら。あなたの気持ちを考える余裕がなかった・・・ごめんなさい、ほんと、ごめんなさいね・・・!」
「ママ・・・・・!」
二人はしっかりと抱き合って泣いていた。俺は心の底からほっとした。ようやく伊達ママは気づくことができたんだな。自分がすでに持っていた、かけがえのないものに。
伊達ママの憑き物が落ちて、視界が大きく開けたら、もっともっと広い世界で、もっともっと多くのものを、小十郎子と共に見つけられればいいと思う。
小十郎子―――しょまはむは、ひとしきり泣いたあと、俺の方を振り返り、こう言った。
「じゅりいぬ・・・・ありがとう。今まで本当に、色々ありがとう・・・・」
こういうシチュエーションに慣れていない俺は、一気に照れたのを急いで隠すために、視線を逸らしあらぬ方を見ながら、一言言った。
「・・・・・おう。」
そして照れ隠しついでに、ママにひとつねだった。
「あのさ、ママ・・・・最後に、一杯おごってくれよ。あの日作ってくれた、あの赤いカクテルをさ」
俺の言葉に顔を上げ、両手でまるで子供がするように涙のあとをゴシゴシこすると、伊達ママはにっこり笑って、こう答えた。
「あれはムリよ。こんな寒い時期に、オシロイバナなんて手に入らないもの。でもね・・・・」
「・・・?」
言いかけて、しばし俺の上に視線をとどめた。じっと俺の顔を見つめる。そしてゆっくりと、思考の糸を紡ぐような目をして、ママはこう言った。
「今のあんたにぴったりなの、作ってあげる」