春まだ遠い北の大地で、俺はあの日と同じように空を見上げていた。少しでも太陽を近くに感じようと枝を伸ばす木々たちを真似て、右手を高く上げ陽にかざしてみる。
 冷たい風にかじかんでしまいそうな心に、暖かな光が沁み込むように、手のひらを透かしたその熱は、確かに俺の胸に届いた。
 いつになったら、この瓦礫の山が消えて、汚染された冷たい土に命の息吹が戻ってくるのだろう。いつになったら人々の心に、安寧と平穏が戻ってくるのだろう。
 きっとそのどちらも、容易にはいかないのだろう。だからこそ寄り添い、力を合わせ、いつか必ずやってくるその日を夢見て、前に進まなければならない。
 俺のこの手を必要としている人たちの為に、俺ができることは、傷ついた彼等に寄り添い、癒し、これ以上の辛苦から守ることだ。
 次に同じことを繰り返さないように、少しでも役に立てればと、俺は今災害救助犬としての訓練を受けながら、避難所や仮設住宅を廻り、心身に傷を負った人々を癒す仕事をしている。俺は俺の手の届く範囲で、俺のできることをして、精一杯、生きていこうと思う。
 澄んだ冬の青空に、ぽっかりと浮かぶ昼間の月を眺めながら、あの日伊達ママが作ってくれたカクテルの色を、記憶の中で重ねる。
 『真冬の青の月』・・・・あんたにぴったりのお酒でしょ?
 ・・・そうだな。俺にそっくりだ。俺はアワレブルー。かつて二兵衛と称された、最高の軍師の片割れ。
 その誇りは一生、消えることはない。
 今なら言える。胸を張って。
 ありがとう半兵衛。いつかまた会おう。
 この青く広い空の下の、どこか遠い場所で。
 

             <完>

ママがカウンターの中に立つのなんて、本当に久しぶりよ、あたしなんだか感激しちゃったと、店の一番奥のスツールに腰掛けた小十郎子が目頭を抑えている。相変わらず以前にも増して埃臭くて黴臭い店だったけれど、俺の最後を飾るにはかえって相応しいような気がした。この街にやってきて間もない頃、初めてこの店のドアを開けた時から、俺にとってはいつだってここが心の拠り所だった。そんなこと、とてもじゃないけど、恥ずかしすぎて誰にも言ったことなんてなかったけどな。
 いつもの店のBGMが流れ、グラスや氷が触れ合う音が聞こえてくる。気持ちが落ち着く。思えばここで、この音たちに囲まれて、俺はいつも、苛立ちや不安を洗い流してきたんだ。路に迷い、答えを見失い、身動きが取れなくなるたびに、ここへ来てこの音たちに癒されていたんだろう。ママの着物の袖が触れ合う衣擦れの音を聞きながら、俺はまたぼんやりと壁にかかる写真を見上げていた。
 「できたわ」
 カウンターの中から聞こえる静かな声に、俺は視線を戻した。ママの白い手が、華奢なグラスを静かにカウンターの上に置いた。それはとても綺麗な、澄んだ色をした青い液体で満たされていた。
 俺はそのグラスを手にとった。うっかりすると壊してしまうんじゃないかと思うほど薄く脆そうなガラスの器の中には、本当に今まで見たことのないくらいに深く、それでいて透明な青があった。底に落とされたグリーンオリーブは、深淵に沈む月のようだ。そしてそれを包む液体の色は、どこまでも青い真冬の空のそれだった。俺は無駄に言葉を発することなく、静かにグラスを口元に運んだ。
すっきりと辛く、ほんのり甘さを感じる。癖のあるテキーラの香りが、程よく鼻に抜けた。
 
俺はこのカクテルを、一口で気に入った。
「このお酒、まるで誰かさんみたいでしょ」
そう言って伊達ママは笑ったが、俺はわざと、聞こえないふりをした。
 
本当に久しぶりで、もしかしたら生まれて初めてかも知れない、穏やかな夜だった。
 
 
「俺、そろそろ行くわ」
ぐずぐずしていたら決意が鈍ると思った。居心地のいい場所から離れられなくなるような気がした。だからその前に、自分から席を立った。
 
俺の指定席。ドアを入ってすぐのスツール。多分もう二度とここには、座ることもないのだろう。
 
床に放り出した荷物を担ぎ、俺は伊達ママと小十郎子と向き合った。穏やかで、少し淋しそうに、二人はただそこに居た。
「元気で。」
 
伊達ママが言う。
「手紙くらい寄越しなさいよ。」
 
小十郎子が微笑む。
 
俺は曖昧にうなづき、彼らに背を向けた。
 そして最後にもう一度、壁の写真に目を遣る。
 
一瞬ののち、ドアノブに手を掛け、思い切り押し開けた。それっきり、振り返ることなく、俺は店を出た。
 
 ひと気のない裏路地を、荷物を肩に担ぎ歩く。夜の空気はまだ冷たく、沈むような重さがある。戻りそうになる意識を繋ぎ止めようとしていたら、いきなり声をかけられて驚いた。
 ふと顔を上げた時、そこにあったのは、挑むような目をして上目遣いに見上げる、あいつの姿だった。
「ムラネコ・・・・」
 
立ち止まり、真っ正面からあいつを見据えた。あいつと俺との距離は約5メートル。その間合いを詰めることなく、あいつは口を開いた。
「まさか行き先も告げずに出て行くとはな。」
「・・・」
「逃げる気か?」
 
相変わらずの上目遣いで、挑発するようにあいつは言う。
 
俺は負けじと応戦する。
「バカ言うな。そもそも、俺は独りが似合うんだよ」
「・・・カッコつけてんじゃねぇよ。」
「お前こそ。」
 そう言ったきり、しばらく沈黙が続いた。街灯の暗い光の下で、俺はあいつの表情を読み取ろうとした。だがあいつはいつもの無表情のままで、両目だけを鈍く光らせていた。
「こんなところで何してんだよ。待ち伏せか?趣味悪りぃな」
「ほっとけよ」
「・・・・・じゃあそうするぜ」
 
俺は踏み出した。あいつとの間合いを詰める。ほんの少しだけ、あいつを包んでいる空気が動いた気がしたが、俺は構わずその脇をすり抜けようとした。
「なぁ。」
 
二人の肩の位置がちょうど並んだくらいのタイミングで、あいつが言った。俺は立ち止まった。とりあえずこの勝負、俺の勝ちだ。
 
視線を斜め下に泳がせ、何かを言いたそうにしているあいつを、俺は待った。俺もまたあいつの腰のあたりより上に、視線を上げることができずにいた。あいつの呼吸が乱れる気配がする。それでも俺は、何も言わず待った。
 やがて言葉を確かめるようにゆっくりと、ためらいがちにあいつが言った。
「ひとつ、聞いてもいいか?」
 あいつから俺に質問するだなんて、まったくどういう風の吹き回しだ。俺は意外に思いながらも、無言でそれに答えた。
 
言いにくそうに、言葉を選びながら、あいつは俺にこう尋ねた。
「あの時・・・お前が立てた作戦・・・・・あの女を殺さなかった・・・・あれは一体、どういう理由からだ?」
 
多くの命を奪った、俺たちの大切なものたちの仇とも呼べるあの女、ニクショークの女首領を、殺さず生かした状態でコントロールすることに決めた、あの作戦のことだ。
「あれは軍師としてのお前の決定か?それとも・・・・・・俺への同情か?」
 
今更そんなこと・・・何細かいことにこだわってんだか。
 
俺はそのまま、あいつの腰のあたりに視線を固定したままで、こう答えた。
「・・・どっちでもねぇよ」
 小声でそう言い置いて、俺は再び歩き出した。
 
通り過ぎる肩のあたりに、あいつの視線を感じる。あいつがそのまま向き直る気配に気づきながらも、俺はそのまま前に進んだ。

「待てよ・・・!最後に、もう一つだけ・・・・・」

 俺の背中にすがるような、心なしか震えているような声。でもきっとそれは、俺の気のせいだ。

 振り返らず、俺は立ち止まる。

 そして全神経を集中させる。

 一つ大きく息をつき、一度溜めて、再び大きく息を吸い込んでから、あいつはこう尋ねた。

「アワレンジャー・・・・・・・好きだったか?」

 アワレンジャー。なんて懐かしい響きだろう。ついこの前まで、俺達はアワレンジャーとして共に戦い、艱難辛苦を乗り越えてきた。なのにもうその言葉は、遠い昔に残してきた抜け殻のような実態のない何かみたいだ。

 アワレンジャー。俺の存在意義。寄る辺なき俺の生きる糧。大願成就のための得物。そして、俺の大切な仲間たち。

 わかりきった質問に、当たり前だろ、と、そう答えたかった。だが不思議なことに、言葉が詰まって声が出ない。いや、出なかったんじゃない。出せなかったんだ。何かを口にしてしまったら、言葉が消える瞬間に、その思いも消えてしまいそうな気がして。鼻の奥の方にツンとした不慣れな痛みを感じながら、俺は必死に何かを堪えていた。

 無言のままの俺の背中に、しびれを切らしたようにあいつが、言葉を投げた。

「俺は・・・・・・俺は好きだった。俺はあそこでお前に、お前たちに会えて、良かったと思ってる。」

 柄にも無くあいつがそんな素直なことを言うもんだから、俺はますます振り返れなくなった。だってこの俺が、あいつに泣かされたなんて、意地でも知られたくなかったからな。

 悟られぬように、涙が零れないように、俺は空を仰いだ。見えない天の川を探しながら、俺は精一杯平静を装って、こう答えた。

「その質問の答えは・・・・もしもまた会えたらな」
そう言い残して、俺は歩き始めた。言葉が、思いが消えないうちに、その気持ちに、気づかれないように。

振り向かず、手も振らず、ただ荷物を肩に担いで、ひたすら前を向いて。

そして胸の中で、こう唱えた。

 幸せになれよ、ムラネコ・・・。

 

裏路地を抜け繁華街を行く。人の波に逆行して歩く。楽しげな複数形の流れの中で、俺だけが独りだった。

あいつに精一杯見栄を張って、独りが似合いだなんてうそぶいてみたが、こういう場所でこそ虚しさが襲ってきて、押しつぶされそうになる。つくづく弱くなったもんだ。昔はいつも独りで、それを淋しいとか、虚しいなんて、思ったことすらなかったのに。俺は早くこの世界から自分を切り離すために、足早に人波をかき分けて進んだ。
 ふとその時、覚えのある匂いが鼻腔を刺激した。それはほんの一瞬で、あっと思った次の瞬間にはどこかに消えてしまっていた。やっぱり気のせいだったと思い込もうとしたが、目は無意識のうちに人波の中を探していた。
 バカだな俺。そんな筈ないのに。さっき伊達ママも言ってたじゃねーか、こんな冬にあの花が咲くわけないって。
 ましてやここに、いるわけがない。
 また寄る辺を探している。これでいいのか、答えてくれる誰かを求めている。必要ないと思い込もうとして、必要なはずの誰かを切り捨てようとしている。俺でない俺がむくむくと湧いてきて、強がる上っ面を引き剥がそうとする。自分の中にいる二つの自分に、心を真っ二つに引き裂かれそうだ。
 
夏のあの匂いは、雑踏の中、見え隠れする赤い背中。思わず息を呑む。見失わないように、俺は必死で追いかける。人波に阻まれ、前に進むことができない。何度も見失いそうになり、そのたびに胸が張り裂けそうに痛む。俺は思わず心の中で、そのひとの名を叫んだ。
 ゆっくりと、まるでスローモーションのように、赤い背中が立ち止まり、振り返る。周囲の景色と音が消える。むせ返るような、夏の夕方の空き地の匂い。赤い小さな無数の花弁が、堪えていた何かを溢れさせた。
NOBUママ・・・・・・」
 ゆっくりと振り返ったその人は、俺の知っている穏やかな微笑みを浮かべていた。音もなく歩み寄り、淋しげで優しい空気をまとったまま俺を見つめる。そして、白い綺麗な指で、俺の頬をそっと撫でた。
 どうしたの、そんな顔して。また何か悩み事かしら?・・・あら図星?うふふ、だってあなた、昔からわかりやすいんだもの。
 でもね、もう悩む必要なんてないんじゃなくて?もう決めたんでしょ。だったらお行きなさい。今のあなたならきっと、大丈夫よ。アタシがいなくても、あなたは充分やってこれたじゃないの。伊達ママのことだって・・・・・感謝してるわ。
 ただ一つだけ・・・。何があっても、もう自分を責めちゃ駄目。これからあなたが向かう場所で、何を見ても何を聞いても、それはあなたのせいじゃないのよ。だから、いつも胸を張って、あなたにできることを精一杯、前を向いて。あなたを待ってる、たくさんの人たちのために。
 さあ、お往きなさい。あなたはあなたの、信じる路を。ね、じゅりいぬちゃん・・・・・・。
 長い睫毛を伏せ、ふわりと漂うように俺の横をすり抜けた。去り際に軽く肩に触れる。その感覚を確かめるために振り返ると、そこにはもう彼女の姿はなかった。
 幻だったのだろう。あまりにも儚くて、確かにそこに在るという感覚がなかった。ただ、俺の頬に触れたあの指先の温度は、確かにあのひとのものだ。
 消えた姿を脳裏に映すように立ち尽くす。あとにはかすかなオシロイバナの匂いと、夜空に浮かぶ薄っぺらな月だけが残っていた。
 わかってる。俺はもう一人じゃない。そんなこともうとっくの昔に、気づいていたじゃないか。
 消え残る夏の名残のあの匂いを、真冬の空気の中に思い切り吸い込んで、俺はまた見えない天の川を見上げた。  

見えなくても、確かにそれはそこに在る。それはきっと、俺の一生の財産になるんだろう。
 俺がどこにいようとも。どんなに、遠く離れていても。

外へ出るともう薄暗かった。街は普段の賑わいで、まるで今までのことが何もなかったかのように華やいでいる。この街を去る前に、俺には行く所がある。馴染みの裏路地の、寂れた雑居ビルの一室に通じる扉を、俺は開けた。
 
埃と黴の匂いが鼻を突く。淀んだ空気がかすかに動く気配がする。うっすらと塵の積もった床に足を踏み入れると、低い息遣いが聞こえてくる。俺はカウンター席の奥の方の、暗がりに目を凝らした。
 するとそこには、目を疑いたくなるほどに変わり果てたママの姿があった。白い着物は煤け、化粧もせず、髪は乱れ放題で、それは本当に、見るも無残な姿だった。
 俺は息を呑んで立ち尽くした。しばらく言葉が出て来なかった。やがてママがゆっくりと顔をあげ、俺を見留めた。
 
心が荒んでいても、何か咎を抱えていても、いつも容易には触れさせぬ気高さをまとっていた筈だった。それが、まともに目も開けていられないほどに酔いつぶれ、酒のにおいを辺りに撒き散らして、ただ其処に在るだけのものになってしまっていたのだ。あまりのことに俺は、絶句したまま、その場に固まっていた。
「・・・・・何よあんた。あたしを笑いに来たの?」
 
薄く開いた左目で、眩しそうに、ママは俺を見上げた。この世の全てを疎むような、そんな声だった。
 
俺は何も言えなかった。唯一の支えであった母親が死に、自暴自棄になった伊達ママを見たくはなかった。だがこれが現実だ。目を背けてはいけない。
 
俺は親の顔を知らない。生まれてこのかた、親という存在を感じたこともない。だから今の伊達ママの感じている辛さがどれほどのものなのか、実感することは出来ない。だが、想像することはできた。俺にとっての恩人とも言える、里の長老や半兵衛。そんな人たちに抱いていた感情がもしかしたら、親に対するそれに近いのかも知れないと俺は思った。失くして苦しいもの。狂おしく求め泣き叫ぶもの。知らず知らずに封じ込めてきたが、俺の中にも確かにあったはずだ。
 
「ママ・・・」
 
俺は何か言おうとして、しかしその先を続けられずにまた押し黙った。低く殺した嗚咽が、カウンターに突っ伏してそっぽを向いているひとの、全身から聞こえてくるようだった。くぐもったその声はあまりに悲痛で、俺は慰める言葉を持たない。思わず歩み寄り、そっとその肩に触れた。
 びくん、と身体を震わせた次の瞬間、はっとする強さでママは俺の手を払いのけた。
 
「やめて!同情なんてして欲しくない!あんたの言うとおり、あたしはあの人を許したのに!やっと許して、判り合えたのに!なのにやっぱり失った・・・・・失ったじゃないの!!」
 
俺と目を合わせずに、ママはそうまくし立てると、体ごと俺に背を向けた。激しく震え、涙に咽ぶその背中は、とても、とても小さく、頼りなげに見えた。
 
俺は振り払われた手を下ろすことなく、再びその震える肩に置いた。今度はさっきよりも、力を込めて。
 
案の定、さらに強い力で振り払われた。だが俺はやめなかった。その震えを止めたくて、俺はママの背後から、そのままの姿勢で、両腕を回して抱きすくめた。
 一瞬、時が止まった。腕の中で、ママが身体を硬くするのがわかった。でもそれはほんの一瞬で、次の瞬間には俺はまた伊達ママの反撃を食らっていた。

「やめてよ・・・・・!そんなことしないで!同情なんていらない!もうやめて!」

そう泣き叫び、俺の腕を振り払おうとする。だが俺はやめなかった。暴れる伊達ママをさらにきつく、腕に力を込めて、抱きしめた。

「あんたの言ったことなんて・・・・・まともに取るんじゃなかった。あたしはお母さんを許して、受け入れて、幸せになれたけど、今は後悔してる。あのままあのひとを、お母さんを、お母さんの本当の気持ちを、知らずにいられたらよかったのにって・・・。憎んだまま死んでくれたら、よかったのにって。そしたらこんなつらい思いしなくて済んだのに・・・・・天国から地獄に突き落とされて・・・もう立ち直ることなんてできない。・・・あんたのせい、あんたのせいよ!」

俺の腕に長い爪を立て、ぎりぎりと力を込めながらママは叫び続けた。俺は同じ姿勢のまま首を横に振った。ママの髪が頬をこすってくすぐったかったけれど、そんなことは気にならなかった。

「それは違う・・・・それは違うよ。もし、もしも、お母さんを憎んだまま、許さないまま永遠の別れが来たら、あんたはきっと、もっと自分を責めたはずだ。それこそ救いがたいくらいに・・・・。でも、あんたはお母さんを許した。受け入れたんだ。幸せだったんだろう?それでいいじゃないか。よかったじゃないか。少なくともお母さんは、救われたはずだ。」

ママの身体が震えるたびに、振動が俺の胸に伝わった。まるで自分に言い聞かせているかのように思えて、何故だか鼻の奥の方が熱くなるのを感じた。・・・・おかしいな、最近の俺、どうかしてる。

それまでかたくなに俺を拒絶しようとしていたママの身体から、少しだけ力が抜けた。そして一つ大きく息をつくと、ママはこう言った。

「そんなわけない・・・・・。あの人が幸せだったなんて・・・・そんなわけ・・・・ない」

「どうしてわかるんだよ」

「わかるのよ。だって、あたしはあの人の子よ。あの人に子供の頃殺されかけた、あの人の実の子よ。あの人はあたしを殺したいほど憎んでた。だから幸せだったはずなんてない。ないのよ・・・・」

伊達ママの言葉を聞いて、俺はやっと理解した。このひとの抱えている昏さの理由を。

だから俺はわざとそれを吹き飛ばすように、はぐらかすような言葉を投げた。

「・・・俺に言わせりゃちゃんちゃらおかしいぜそれ。俺なんて親に捨てられたんだ。育ててもらっただけマシじゃねーの」

「野良犬のあんたと一緒にしないで」

「一緒だよ。今のあんたは野良犬よりたちが悪いぜ」

そんな会話を通して、ようやく少し落ち着いたのか、ママの身体からは完全に力が抜けていた。いつしか震えも収まっていた。だから俺はそっと、ママの身体に回していた腕を解いた。

「・・・・・どうして、帰らなかったの」

「ん・・・?」

肩越しに少し振り向くような仕草を見せながら、伊達ママは俺に尋ねた。

「あたし、あんたを拒絶したのに。どうしてこんなこと・・・・」

確かに手を振り払われた。明らかな拒絶の合図だ。だが俺は去る気になどならなかった。むしろここに居たいとさえ思った。

「それはさ、できることをあきらめたくなかったからだよ」

「・・・できることを・・・?」

眼帯をしていない、ママの裸の左目が俺を捉えた。俺は逸らさずに、まっすぐにその目を見て答えた。

「今、俺にできることを、あきらめた時、招いた結果を知って、後で後悔したくなかったから」

「・・・・後悔、したくなかった・・・・・」

「ああ。」

ママの隣の席に座り、俺は先を続けた。

「救えたはずの命とか、伝えられたはずの言葉とか、そういうので俺、ことごとく後悔してきてるからさ。今自分にできることを、全力でしたかった。諦めたくなかった。だってさ、前も言ったけど、迷惑かもしれないけど、ママは昔の俺に似てるからさ」

「・・・・・・・・・・・・・」

「彼らが生きてるうちに、俺ができることがあったはずなのに、俺が手を差し伸べなかったばっかりに、もう二度と会えなくなった。だからさ、俺、もうそういうの、やめたんだ」

「・・・・あんた・・・」

気づけば、いつのまにか伊達ママは俺の方に向き直っていた。まっすぐに俺の目を見て、俺の言葉に耳を傾けていた。

「だからママにも後悔して欲しくなかった。だからちゃんと向きあって、許してやって欲しいと思った。で、あんたはそれをしたんだろ? お母さんの気持ち、聞いたんだろ? 良かったじゃねーか。もう二度と会えなくなる前で」

「あたし・・・・・あたし・・・・・・ほんとは・・・・・」

俺の言葉に反応して、ママは目に涙を貯めていた。俺はその涙を、とても美しいと思った。

その時、店のドアが開いて、小十郎子が帰ってきた。買い出しにでも行っていたらしく、その両手にはショッピングバッグをぶら下げていた。振り返った俺を見留め、小さく息をつきながら小首を傾げる。今は小十郎子の姿をしたしょまはむが、俺に向けた挨拶のようなものだ。

「ママ、大丈夫?」

カウンターに買ってきた品物を置き、小十郎子は声をかけた。それは司令室にいる時とうってかわって、優しい響きに満ちていた。

小十郎子の声に、ママは視線を泳がせた。そして俺と小十郎子に交互に目を遣りながら、まるで零れ落ちた何かを拾うかのようにポツポツと話し始めた。

「あたし・・・・・嬉しかった。お母さんが訪ねてきてくれて、本当に嬉しかったの・・・。でも、そんな日は長く続かなくて・・・あたしが、あたしみたいなうつけが、幸せになっちゃいけなかったんだって、そう思ったの。あたしのせいで、お母さんが死んでしまったんじゃないかって。でも・・・・でも良かったのかな。これで、良かったのかな。お母さんも、幸せだって、感じてくれてたのかな・・・・」

消え入りそうな伊達ママの背中を、そっとさすりながら小十郎子が言った。

「当たり前じゃない。あんなに幸せそうで、楽しそうなママとお母さんの顔、あたし忘れないわ」

そしてこの上なく優しい表情で、伊達ママに微笑みかけた。俺は想像した。心からの笑顔で母親に語りかける伊達ママの姿を。きっと穏やかで優しい時間が流れていたんだろう。胸いっぱいに何か暖かいものが広がるのを感じて、俺は言った。

「同感だ。きっとあのひとも、そういうだろうな。」

俺は壁にかかった赤いマントの写真を見やって、そう言った。

そうよ、あなたたちみんな、後悔のない人生を送りなさい。こころの赴くままに生きて、そして自分の人生に責任を持ちなさい。そうすればきっと、『みち』は拓けるわ。

NOBUママ・・・・・・」

気づけば伊達ママも小十郎子も、赤い服を纏ったひとの写真を見上げていた。この二人にとっても彼女は原点なのだろう。今居るここに導いてくれ、『みち』を指し示してくれた、道標のような存在だったのだろう。俺にとっての彼女が、そうであったように。
 ふと気配を感じ視線を落とすと、小十郎子が俺の横顔を見上げていた。目が合うと、覚悟を決めたような声色で、こう尋ねた。
「・・・行くのね。」
 
俺は小さくひとつ息を吐きながら答えた。
「ああ。」
「行き先は?」
「俺のこの手を必要としてくれる人たちのところへ。」
「そう・・・・・あなたならきっとやれるわ。」
「俺もそう思う。いや、信じてる」
 俺と小十郎子のやり取りを聞いていた伊達ママが、色めき立った。
「・・・ちょっと待って、行くって何よ・・・・?!」
 
俺と小十郎子を交互に見上げるその表情には、不安の色が浮かんでいる。
 
俺はママの目線に合わせるために背中を少し丸めた。そして彼女の両肩より少し下を両手でしっかりと掴んだ。今度は振り払われないように。拒絶されないように。
「あんたなら大丈夫だ。乗り越えられる。俺がそうだったように。」
 
小刻みに首を横に振る。振り払うどころか、ママはその両手で俺の前腕をきつく掴み、強く揺すりながら言った。
「嫌よそんなの・・・あたし聞いてない!お母さんが居なくなってその上あんたまで・・・嫌よそんなの嫌!」
「ママ・・・」
 再び取り乱した伊達ママの様子に、小十郎子が心配そうに声をかける。
「あんたまであたしを置いて行くのね・・・やっぱりあたしみたいな・・・あたしみたいなうつけ、誰も相手にしてくれないんじゃない。やっと、やっと見つけたと思ったのに・・・・やっと・・・・」
 すがる両手にこめられた力は強く、きつく掴まれた腕の部分が痛んだ。しかし俺は耐えた。
「あんたの手を必要としてる人たちのところですって? 何よそれ・・・カッコつけるのも好い加減にして。一番あんたを必要としてる人がそばに居るのに、そんなことにも気づかないあんたに、あんたなんかに、何ができるもんですか!とっととどこへでも行きなさいよ!行きなさいったら!!」
 そう言ってママは泣き崩れた。言葉で思いきり俺を拒絶しながら、しかし俺の腕を離そうとはしなかった。激しい罪悪感のような感情に支配されそうになる。違う、そうじゃない。あんたのそばにいて、あんたを支えることができるのは、俺じゃない。何度もそう言いかけては、その度に言葉を飲み込んだ。
 
何も出来ずにいる俺の隣で、小十郎子がいきなり声を荒げた。
「伊達ママ・・・・・!しっかりなさい!」
 そして思い切り、ママの右側の頬を張った。
 パチン、という音がした。少し拍子抜けがするような呆気ない音だった。だがその衝撃は、伊達ママを落ち着かせるのに充分だった。
「いい加減にしてよ!いつまで甘ったれてれば気が済むの?!いつまで悲劇のヒロイン気取ってれば気が済むのよ!!」
 意外だった。小十郎子の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。悲劇のヒロイン。それはかつて俺が伊達ママに浴びせかけた侮辱の言葉であり、それがきっかけで一時俺と伊達ママの関係がギクシャクしたことがあった。どこまでも伊達ママを慕い支えてきた小十郎子の口から、よもやそんな言葉が出るとは予想だにしていなかった。
 
「こじゅ・・・」
 伊達ママも驚いたのだろう。俺の腕を握っていた手から徐々に力が抜け、やがて力なく膝の上に落ちた。
 はらはらしながら横に立ち尽くす俺のことなどまるでお構いなしに、小十郎子はまくし立てた。
「あたしが好きだった伊達ママはね、いつだって勝ち気だったわ。相手の出方次第で屁理屈だって何だって押し通しちゃう強さを持ってた。いつも堂々としてて、黒を白と言い張って相手を納得させてしまう強さを持ってた。なのに今のママったら何よ、いつまでもメソメソしちゃってさ、そんなの、そんなのあたしの好きな、伊達ママじゃないっ!!」
 ありったけの力を振り絞り、肩を大きく上下させながら息をしている。そんな小十郎子を前にして、伊達ママは完全に沈黙した。視線はどこか宙に固定され、何かを思い出しているように思えた。

「ママにはあたしがいるじゃない。あたしがついてるじゃないの。あたしは・・・・ママがホトトギスをちょん切るずっとずっと前から、ママだけを見てきたのに。ママだけを支えて生きてきたのに。なのにダメなの?ママ、あたしじゃダメなの?あたしじゃママを支えることはできないの?一緒に生きていくことはできないの・・・・?」

 俯く小十郎子の眼から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。カールした髪が幾房か、大きく開いたドレスの肩のあたりを滑り、泣いている小十郎子の横顔を隠すかのように、はらりと落ちた。

「小十郎子ちゃん・・・・・・!」

 それまで腰掛けていたスツールから立ち上がり、伊達ママは小十郎子を掻き抱いた。

「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい小十郎子ちゃん・・・・あたしったら、あたしったらなんて馬鹿だったのかしら。あなたの気持ちを考える余裕がなかった・・・ごめんなさい、ほんと、ごめんなさいね・・・!」

「ママ・・・・・!」

 二人はしっかりと抱き合って泣いていた。俺は心の底からほっとした。ようやく伊達ママは気づくことができたんだな。自分がすでに持っていた、かけがえのないものに。

 伊達ママの憑き物が落ちて、視界が大きく開けたら、もっともっと広い世界で、もっともっと多くのものを、小十郎子と共に見つけられればいいと思う。

 小十郎子―――しょまはむは、ひとしきり泣いたあと、俺の方を振り返り、こう言った。

 「じゅりいぬ・・・・ありがとう。今まで本当に、色々ありがとう・・・・」

 こういうシチュエーションに慣れていない俺は、一気に照れたのを急いで隠すために、視線を逸らしあらぬ方を見ながら、一言言った。

 「・・・・・おう。」

 そして照れ隠しついでに、ママにひとつねだった。

 「あのさ、ママ・・・・最後に、一杯おごってくれよ。あの日作ってくれた、あの赤いカクテルをさ」

 俺の言葉に顔を上げ、両手でまるで子供がするように涙のあとをゴシゴシこすると、伊達ママはにっこり笑って、こう答えた。

 「あれはムリよ。こんな寒い時期に、オシロイバナなんて手に入らないもの。でもね・・・・」

 「・・・?」

 言いかけて、しばし俺の上に視線をとどめた。じっと俺の顔を見つめる。そしてゆっくりと、思考の糸を紡ぐような目をして、ママはこう言った。

 「今のあんたにぴったりなの、作ってあげる」