「幸せ」っていうのは状態や環境じゃなくて感情なんだと思う。

前者は「恵まれている」で、

感情とは直結しないからそのときは気づかないこともしばしば。


という話を友人にしました。

友人の意見はちょっと違うようでしたが。


ことの発端は,幸せってなんだろう,と考えてる状態は

幸せじゃないよなぁ と思ったこと。

だから最初は幸せってかゆいところに似てる。

探せば探すほど遠ざかってる気がするんだ。

とか詩的で知的なtweetを吐こうかと思ったんだけど。


幸せを実感したときってじゃあなんなんだろう。とか

考えてるうちによく分からなくなって、

本読んでれば幸せだけどいつでも本を読める

今の環境は幸せといえるとはそのまま言えないなぁ。

と思って。


幸せをずっと感じ続けることはできないし、

波はあるし、

それって感情の動きだよなぁ と思ったのです。


幸せは目に見えないし恒常的なものでもないし,

それは喜怒哀楽と同じ。

幸せであり続けることはできないし,

喜び続けることも悲しみ続けることもできない。


だからいつまでたってもそれを感じたくて

追い求めるのだと思います。

なんというか,こっちのblogは文字数の足りないtweetに対して

補足的な意味で使おうと思ってたのになんか閻魔帳みたく

なりそうなのでこの件に関してはなにも言いません。


ただ記事を書こうと思って色々考えた結果,

私は今の会社の理想像の中にはいない気はする。

会社が変わる前に私自身が変わらないと厳しいかもしれない。


多分僕が見ている周りの人の世界より,

周りの人が見ている僕の世界は歪なんだと思う。

近くにいれば分からないんだろうけど、

多分対岸に行ってしまえば、

そちらの世界が華々しく,こちらの世界は奇妙に

捻じ曲がったように見えるんだと思う。

それくらい人の世界は脆い。


世の中を楽しんでいるいわゆるリア充って人たちから見ると,

多分私たちの生活はなんだか四角四面に小難しい話をして,

悩まなくてもいいようなことで悩んで,

人生の楽しみ方を知らずにひねくれてるだけだとおもわれるんじゃないかな。

でも,この傍から見るとまったく世をすねてるだけのような生き方も

悪くないし,実際楽しくてそうしているわけだから,

リア充に何を言われてもそれは向こうが分かっていない,

自分はこちら側だ、と思ったりする。


でも,何かのきっかけで向こう側の世界を知ってしまったら,

意外にも向こう側の世界は生きやすく,息易く,

その世界に染まってしまう。


今は自分の嫌っている世界でも,飛び込んでみると意外と

住み心地のいい場所かもしれない、というお話でした。


ちなみにいぬには生きづらくて無理でしたが。