家庭教育支援法 青少年健全育成基本法がもたらす「家族」と「教育」 | 渾沌から湧きあがるもの

 

 

埼玉県のトンデモ条例が話題ですが他人事ではございません。

全国各地すでにトンデモの種はまかれております。

 

 

 

家庭教育支援法

青少年健全育成基本法がもたらす「家族」と「教育」

 

 

 

 

国家が「家族のあり方」を強制する時代がやってくる!

 

安倍政権の次の狙いは、「家庭教育支援法」の成立であろう。この法律案は、2006年に改正された教育基本法に基づき、さらに明確に国家が求める家庭像や親像を提示し、その実現を責務として国民に要求する構えとなっている。


戦前の家制度からの決別を目的とした憲法24条(家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めた条文)と対立する、と批判集中の「家庭教育支援法」。さらには「青少年健全育成基本法」も成立しそうな勢いである。この二つの法律が定められたら、国家は家族や教育にどんなふうに関与してくるのだろう? 国家は個人をどのように管理していくのだろう? 大阪大学の木村涼子さんにご寄稿いただいた。

 

 

◆「家庭教育支援法」は内面の自由を脅かす

 

現在、「森友文書の改ざん問題」や裁量労働制導入の根拠となるデータの間違いなど、さまざまな問題が安倍政権を揺るがせているが、そんな中でも「家庭教育支援法」をはじめとして、「青少年健全育成基本法」、労働基準法の「改正」(「高度プロフェッショナル制度」の導入)など各種法案の成立、ひいては憲法「改正」の実現に向けての動きは着々と進められている。
 

本稿は、これらの動きの中でも自由民主党が早期成立を目指す「家庭教育支援法」に焦点をあてる。「家庭教育支援法」の問題点を考えるにあたり、次のような状況をイメージしてほしい。

 

国が定める「のぞましい子ども」を育てることは、日本社会全体の責務。子どものいる家庭は行政が送る家庭支援チームに全戸訪問され、各家庭の個人情報とともに「家庭教育力が低い」「親の心が不安定」などの評価と、支援の必要の有無が記録される。近隣住民は、その家庭への支援への協力を要請される。成人は生涯教育施設などで、中学生や高校生は学校で、「のぞましい親」になるための教育(「親学」)を受けることを強制される。

 

これは、自民党が公表している「家庭教育支援法案」の条文と、国の法律制定に先立って「家庭教育支援条例」をつくった各自治体ですでに取り組まれている事例を組み合わせて、この法律が成立した場合に現実のものとなり得る状況を筆者が想像してみたものである。
 

まず、すべての方に知ってほしいのは、「家庭教育支援法」とは、子育て中の家庭にのみ関わる問題ではないということだ。

 

名称を一見しただけでは、子どもはいないから/子育てはすでに終えたから/男性だから、などの理由で、自分にはあまり関係ない法律のような気がしている人が多いのではないだろうか。
 

もちろんこの法律が成立した場合、子育て世代は大きな影響を受けるだろう。しかし、その影響は、子育て世代に限定されない、根本的で普遍的なものだ。「家庭教育支援法」が内包する根本的な問題点は多々あるが、ここでは内面の自由という観点からの議論を提示したい。
 

自民党による「家庭教育支援法案」は、個人の尊重や基本的人権を保障する憲法の各種条文に抵触する、あるいは抵触する危険性が極めて高いものだと筆者は考えている。

 

憲法は、個々の信条にもとづいて生活することができる権利、婚姻や家族のあり方について自由に選択する権利、個人の内面の自由などを保障しているが、それらを脅かす内容が、本法案の大きな柱となっているからだ。

 

「家庭教育支援法案」がすべての人の基本的人権を制限する可能性を内包していることを如実に表す条項として、第二条(基本理念)を取り上げる(法案全体についてくわしくは拙著『家庭教育は誰のもの?――家庭教育支援法案はなぜ問題か』〈岩波ブックレット、2017年〉を参照されたい)。


以下、第二条を引用する。この条文は、自民党が議員立法での成立を目指していた2016年10月20日時点の素案「家庭教育支援法案(仮称)」を基本にし、2017年2月に修正されたとの報道(2017年2月14日付朝日新聞夕刊)があった点については修正を反映させたものである。

 

 

第二条 家庭教育は、父母その他の保護者の第一義的責任において、父母その他の保護者が子に生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めることにより、行われるものとする。


2 家庭教育支援は、家庭教育の自主性を尊重しつつ(「修正」案ではこの部分削除)、社会の基礎的な集団である(「修正」案ではこの部分削除)家族が共同生活を営む場である家庭において、父母その他の保護者が子に社会との関わりを自覚させ、子の人格形成の基礎を培い、子に国家及び社会の形成者として必要な資質が備わるようにする(修正案ではこの部分削除。文章がつながるようにするための文言調整は未公表)ことができるよう環境の整備を図ることを旨として行われなければならない。


3 家庭教育支援は、家庭教育を通じて、父母その他の保護者が子育ての意義についての理解を深め、かつ、子育てに伴う喜びを実感できるように配慮して行われなければならない。


4 家庭教育支援は、国、地方公共団体、学校、保育所、地域住民、事業者その他の関係者の連携の下に、社会全体における取組として行われなければならない。

 

 

いかがだろうか。パッと読んだ限りでは常識的なことが書かれていると思われるかもしれない。

 

しかし、国家が定める基本法として、あらためて読み直していただきたい。

「生活のために必要な習慣」

「自立心」

「心身の調和のとれた発達」

「子に社会との関わりを自覚させ(る)」

ことなどは、国家が個人や個々の家庭に強制するようなものだろうか。

 

こうした内容を家庭教育の責務として国民に強制する国の法律ができることは、第二次世界大戦後新憲法下では初めてのことである。


しかも、3項に書かれている「父母その他の保護者が子育ての意義についての理解を深め、かつ、子育てに伴う喜びを実感できる」という文言は、子どもを産むか産まないかの選択の自由、家族ごとに子育てをどのように意味づけるかの自由、子育て中に何を感じるか考えるかの自由を侵している。とりわけ、「喜びを実感」などという感情・情緒に関する文言を法律に書き込むことは、近代法の原則から逸脱している。


そして、これらは保護者のみならず、第二条4項に明記されているように、地域住民そのほかの関係者にも及ぶ。第六条では「地域住民等の責務」(修正によって「役割」と表現が和らげられたが、自民党2017年10月案では「責務」)が定められ、第七条「関係者相互間の連携強化」でも家庭の保護者や自治体、学校などに加えて地域住民が家庭教育支援のための連携強化の対象となっている。

 

「家庭教育支援」が旗印となれば、すべての国民が第二条「基本理念」を実現すべく協力しなければならない。地域コミュニティは、住民の自発性を基礎とし、コミュニティへの関わりの度合いや内容が個人にとって選択可能な限りにおいて、その充実に意義がある。

 

しかし、家庭と地域住民の責務や役割が国家の基本法で制定されてしまうと、第二次大戦中の隣組のように、個々の家庭や個人に国策協力を強制したり、相互監視するような抑圧的な状況が生まれ得る。

 

再度上記の「家庭教育支援法案」の第二条を見ていただきたい。2017年2月の修正で、第二条から「家庭教育の自主性を尊重し」という文言が消えている。


「家庭教育支援法案」は、第一次安倍政権時の2006年に「改正」された教育基本法に依拠している。教育基本法「改正」当時、「教育基本法案」に対して巻き起こった重要な批判の一つが、その第二条「教育の目標」の設定にあった。

 

「豊かな情操と道徳心」「健やかな身体」「自律の精神」「公共の精神」「伝統と文化を尊重」「我が国と郷土を愛する」など、議論を呼ぶ新たなキーワードがちりばめられた5項目にわたる条文が「教育の目標」として掲げられた。

 

それらは〈のぞまれる国民〉を規定するものであり、家庭も学校も〈子どもをそのように育てる〉責務を、子どもの側は〈そのように育たねばならない〉という課題を負わされたことになる。
 

「改正」教育基本法は、第十条「家庭教育」や第十一条「幼児期の教育」を新設したことでも批判を受けたが、これらが現在の「家庭教育支援法案」へとつながっている。

 

ただ、「家庭教育の自主性を尊重し」という文言は、問題含みの「改正」教育基本法にすら書かれているのだ。「家庭教育の自主性を尊重しつつ」という文言が削除されれば、家庭に関わる基本的人権を国家による干渉から守る根拠がなくなってしまう。

 

「自主性を尊重」の削除は、今回の「家庭教育支援法案」が「改正」教育基本法以上に、わたしたちの内面の自由を脅かし管理統制するステップを上ろうとしている証左でもある。


家庭教育の内容が法律で定められ責務化されるということは、わたしたちが直面する新たな事態である。学校教育については、学習指導要領とそれに従う検定教科書によって内容が規制され、義務教育に就学させる義務は保護者に課せられている。

 

現在、学校教育は相当程度国家の管理下にある。多くの人々はそのことに合理性を見出し納得もしているが、しかし、教科書裁判、学習指導要領そのものの法的拘束性をめぐる議論、道徳教育批判など、学校教育に対する国家の管理統制の程度や方法、方向性の是非は、戦後ずっと議論されてきたことだ。今や学校のみならず、家庭教育もまた国家によって管理統制される道が拓かれつつあるのだ。
 

国家によって管理統制された家庭教育がその責務を果たすために、「家庭教育支援法案」は第二条3項で次のように定める。「父母その他の保護者」は「子育ての意義についての理解を深め」なければならないと。今や大きな流れを持つ「親学」(親学については後述)の登場だ。

 

教育基本法が「改正」された流れは、「家庭教育支援法案」だけでなく、「青少年健全育成基本法案」にもつながっている。この二つはセットで早期制定が目指されている模様だ。

 

「青少年健全育成」といえば、「有害図書」やインターネットの「有害情報」から子どもを守るという観点、それに対し、表現の自由の観点から議論があることなどを思い浮かべるだろう。

 

一見、バラバラの文脈で目にすることが多かったであろうこの二つの法律は、セットで成立することで、「子ども/青少年のために」を合い言葉として、表現の自由の問題のみならず、すべての人々の思想・信条の自由や、子ども・青少年の人権を、国家が制限することを可能にする。

 

 「青少年健全育成基本法案」(以下、青少年法案)は、2009年に制定された「子ども・若者育成支援推進法」(以下、子ども・若者法)の改正としての位置づけで提案されている。

 

「青少年法案」は「子ども・若者法」から多くの条項や文言を引き継いでいるが、「子ども・若者法」の第二条「基本理念」に明記されていた、「子ども・若者について、個人としての尊厳が重んぜられ、不当な差別的取扱いを受けることがないようにするとともに、その意見を十分に尊重しつつ、その最善の利益を考慮すること」(第二条2項)、「当該子ども・若者の意思を十分に尊重しつつ、必要な支援を行う」(第二条7項)などの、子ども・若者の人権に関わる重要な文言は、すべて消えている。


現行の「子ども・若者法」では、国と地方公共団体の責務が定められているのみで、国民の責務といった発想は見られない。むしろ、国民主権や子どもの権利を意識して、「広く国民一般の関心を高め、その理解と協力を得る」「多様な主体の参加による自主的な活動に資する」(子ども・若者法:第十条)、「子ども・若者を含めた国民の意見をその施策に反映させるために必要な措置を講ずる」(同第十二条)といった文言が、国や地方公共団体の「暴走」を防ぐことができるように明記されている。
 

それに対して、新しい「青少年法案」は、「青少年の健全な育成」のために、国や地方公共団体のみならず、保護者、国民、事業者に「責務」があると、それぞれ別個の条項を立てて規定している。

 

国による「健全育成」の定義や基準があり(すなわち「不健全」の定義や基準もあることになる)、それが一般の国民の責務とされたときに、個人の内面の自由は侵されていく。「青少年法案」には、子どもや青少年自身の権利という発想もない。


「青少年健全育成基本法案」はそういう意味で、「家庭教育支援法案」と極めて似通った危険性をはらんでいる。保護者、近隣住民、国民すべてが、「健全」に子どもを育てる責務を負うという意味では、「家庭教育支援法案」と「青少年健全育成基本法」がセットで成立すれば、強力な拘束力を発揮することになる。

 

国のレベルでは「家庭教育支援法」も「青少年健全育成基本法」もまだ成立していないが(2018年3月時点)、すでに多くの自治体が、国の法律を先取りした「家庭教育支援条例」や「青少年健全育成条例/青少年保護条例」を制定している。


家庭教育支援条例」は2013年の熊本県が最初の例だが、「青少年健全育成条例/青少年保護条例」の制定運動は1990年代から始まった。いわゆる「有害図書」の規制について「表現の自由」や「子どもの人権」の観点から賛否の議論を巻き起こしつつ、メディアや青少年の行動への規制を強化した条例が全国に広がり、現在では全都道府県が制定するに至っている。
 

「家庭教育支援条例」制定も「青少年健全育成/青少年保護条例」と同じく、自民党や日本会議において重要なミッションとして位置づけられ、署名請願運動や地方議会から国会への請願提出などを組織的にリードしている可能性が高く、そうした動きによって、今後さらに増えることが推測される。

 

組織的な動きが存在することを推測させる理由の一つは、それぞれの条例の文言がかなり似通っているという点である。各地方の特色も見られるが、自民党の「家庭教育支援法案」に沿いつつ、家庭生活や子育て方針により具体的に踏み込んでいる場合が多々見られる。

 

また、

「愛情による絆で結ばれた家族」(熊本県・鹿児島県・岐阜県・徳島県・千曲市など)、

「愛情で包まれた家族」(加賀市・和歌山市など)、

「保護者は(中略)子供に愛情をもって接し」(鹿児島県・静岡県など)と、

「愛情」というプライベートな関係性の中で個人の内面に自主的にしか生まれ得ない感情に触れた文面が多いことも特徴である。

 

 

 

「家庭教育支援法案」や「青少年健全育成基本法案」の背後には、「立派な親」をつくる「親学」なる政治活動が存在する。

 

近年「親学」という言葉を耳にしたり、「親学」を掲げる書物を目にすることが増えている。「親学」推進は21世紀初頭から全国的に展開するようになったものであり、2012年4月に、超党派の国会議員による親学推進議員連盟結成(結成当時の会長は安倍晋三氏)の際にその政治性を顕わにした。「親学」と日本会議の関係も深い。  
 

「親学」推進運動の中心をになう「表看板」が高橋史朗氏や木村治美氏である。高橋史朗氏は、日本最大の「保守」勢力として話題となっている日本会議のメンバーであり、歴史教科書問題、戦後教育を自虐史観として批判、ジェンダーフリー教育・性教育バッシングなどでも活躍してきた人物だが、近年は親学、家庭教育再生に注力している。
 

「親学」関係の書籍を読めば、いじめ・ひきこもり・自殺・少年犯罪・虐待・不登校・学級崩壊・発達障害など、子どもが直面する問題はすべて、親の自覚や知識そして愛情のなさゆえだと、保護者を責めるメッセージに満ちている。とりわけ、母親の責任を重視し、「三歳児神話」や「母性愛神話」のように、母親を追い詰める脅迫的な言説が目につく。

 

しかし、「親学」推進者は、すべての「日本人」はかつての伝統的な子育てを思い出すために、「親学」を学ぶべきだと説く。

 

 

◇現代の子育て事情にひそむ被抑圧感の大きさ


 「親学」を勧められる立場にある、現在子育て中の保護者は果たして「親学」のようなものを学びたいと思うだろうか。

 

  一人暮らししてたの おかあさんになる前 
  ヒールはいて ネイルして 立派に働けるって強がってた
  今は爪切るわ 子供と遊ぶため 走れる服着るの パートいくから
  あたし おかあさんだから
  (作詞:のぶみ〈絵本作家〉)

 

こうしたフレーズで始まる歌「あたし おかあさんだから」の炎上事件は、テレビや新聞でもさかんに取り上げられた。この歌詞、あなたはどう感じた/感じるだろうか(歌の動画はすでに削除されているが、歌詞は全文ネット上に残存。外部サイトに接続します)。 
 

この歌は、18年2月2日にネット動画サービスで、NHK「おかあさんといっしょ」11代目「うたのおにいさん」として知られる横山だいすけ氏が、〈お母さんへの応援歌〉として披露したものである。


動画が流れた直後から、まずツイッターなどインターネット上で、この歌詞は、母親を応援するというよりも、母たるものは子育てのためには自己犠牲して当然と受け取れると、批判が湧き起こった。まさに子育て中の女性や子育てを経験した女性たちの多くから、父親不在の「ワンオペ(ワンオペレーション)育児」が前提なのはおかしい、母親の自己犠牲を賞賛するな、母親の自己犠牲アピールは子どもにとっても負担だ、子育ては我慢ばかりではない、などの声が相次いだのだ。


その後数日間のツイッターは、「#あたし おかあさんだけど」(自己犠牲しない、完璧な母親ではないという内容が続く)、「#おまえ おとうさんなのに」(家事育児を手伝わず自分勝手に振る舞っているといった内容が続く)などの、この歌詞を批判的にパロディ化するハッシュタグが次々と立ち上げられ、大喜利状態のような様相を呈した。


一方で、この歌詞に励まされたと擁護する意見もあったのだが、印象的だったのは、批判の中に、辛くて泣いてしまった、怒りが抑えられない、子育てをバカにしないでほしいといった、切迫感あふれる感情を示すものが多かったことである。

 

歌詞の是非はさておき、この歌詞が「炎上」したという事実は、現在の女性や家族の置かれている状況を象徴していることは確かだ。


広がり続ける「#MeToo」運動のように、ひと昔前であれば許されたこと、当事者が仕方ないと諦めていたことに、NOの声を上げる人たちが増えている。2016年の一般市民女性のブログでの「保育園落ちた日本死ね」(2016年流行語大賞トップテンに選ばれるほど社会的注目を集めた)という書き込みについて、最初は表現が乱暴すぎて驚くとの声もあったが、この文章に賛同・共感する声が隆盛、「保活」についての専門家の解説もなされ、結果的には国会で待機児童問題解決の必要性を示す文脈で取り上げられることとなった。


賃金上昇率の伸び悩みや非典型雇用(いわゆる正規雇用〈正社員〉以外の有期雇用を指す)の増加の下、典型雇用(正社員)の労働者も「自分の椅子」を守るために長時間労働せざるを得なくなっている。共働き家族が増え、子育て世代は仕事と子育ての両立に四苦八苦している。

にもかかわらず、保育料は高い、保育所も学童保育も不足、児童手当は少ない。将来の教育費を家計でまかなえるのか、学校で子どもがいじめられないか、など、心配は尽きない。必死で生活している状況に、「おかあさんだから○○」といった規範的な文言が、〈お母さん応援歌〉として聴かされたときに、怒りや悲しみが「爆発」してしまうのは当然かもしれない。子育て世代は今、さまざまな面でプレッシャーを抱え、被抑圧状態にある。


そんな状態にある現役子育て世代に、「あるべき親」を説法する「親学」が歓迎されることはないだろう。

 

「子育て世代を応援」するための「家庭教育支援法」?

 

「親学」はさておき、「家庭教育支援法」そのものは、ぎりぎりで頑張っている子育て家庭を本当にサポートするような内容なのだろうか。筆者の答えは否である。


「家庭教育支援法案」は、子育てを支援するための経済的支援やルールづくりなどの社会の制度設計より、国家が地方自治体や学校、近隣住民の囲い込みを通じて、個々の家庭の子育てを管理統制しようとするねらいが色濃く感じられる。現在の安倍政権の子育て支援政策もアドバルーンは派手に揚がるが、内実は実に不十分だ。


安倍政権は「待機児童ゼロ」を提唱し、多くの子育て中の家庭はその達成を心待ちにしただろうが、今もまだ、いわゆる「待機児童」は全国で例年2万数千人を超える。しかも、各自治体による内訳データの公表などから、保護者がやむなく育休を延長したり求職活動を停止したりするなどして、厚労省の定義から外れている、潜在的な「待機児童」数は7万人近くに上ると推定されている(2017年9月2日付東京新聞朝刊)。

 

政府の男女共同参画施策も産業界も、男性の育児休暇取得率を上昇させようとしているとか、育児に参加する男性のことを「イクメン」と推奨するといった動きを見せているが、これだけ雇用が不安定化し、長時間労働も増えている中で、個々の父親、個々の家庭の努力でまかなえることは限られている。


こうした状況下で、家庭教育の重要性を保護者や近隣住民に押しつけられても、わたしたちはただ困るだけだ。家庭教育を支援するなら、まずは労働条件の改善や、子育てのための施設や予算の確保が何よりも重要となる。

 

2017年総選挙で与党圧勝により発足した第四次安倍内閣は、2017年11月8日に選挙公約であった「人づくり革命」について提言づくりを進めると発表した(自民党機関紙「自由民主」2767号 2017年11月21日号)。

 

「人づくり革命」のうち、目玉公約が「幼児教育・保育の無償化」と「高等教育無償化」である。「幼児教育・保育の無償化」は、保育料が高い認可外保育所を対象外とする可能性が高く、認可保育所に入所できない待機児童問題の解決の方が、保護者にとっては切実な問題である。まず子どもを預けることができる施設が確保できなければ、無償化の恩恵にあずかることもできないわけだ。


2017年12月8日閣議決定された「新しい経済政策パッケージ」(内閣府HPにて公表)は、「第2章 人づくり革命」の中で「幼児教育の無償化」の理由として、幼児期は「情操と道徳心の涵養にとって極めて大切な時期」だと規定し、「根気強さ、注意深さ、意欲」などを身につけるために「幼児教育・保育の質の向上も不可欠である」(2-1,2-2ページ)と述べている。そもそも財政的な余裕はないわけだから、幼児教育・保育所施設にせよ、高等教育機関にせよ、無償化の対象となるためにクリアしなければならない基準を設け、「ふるい分け」がなされるだろう。幼児教育の場合は、上記のような「情操と道徳心の涵養」を行えることが無償化の条件となるのではないか。卑近な表現を借りれば、「お金を出すなら口も出す」という発想が今後展開していく、いや、むしろそれこそが「無償化」に隠された目標かもしれない。


安倍首相夫妻の関与が疑われる国有地売却の問題で森友学園が注目を集めたことで、系列の塚本幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させていることなど、その教育内容が問題となった。結果として、2017年3月31日、政府は、学校教育において教育勅語を歴史史料以外の扱いとして取り扱うことに関して、「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。


戦前の修身科と似た役割を果たすのではないかと危惧される道徳の教科化が小学校以上の学校教育で開始される今、幼稚園教育要領(文科省)や保育所保育指針(厚労省)についても、「美しい日本」(安部首相)を特別なすばらしい国と考える「愛国心」の強調などが含まれていくのではないかと考えるのは杞憂だろうか。いや、情勢次第で杞憂に終わらないと判断した方が賢明だろう。「青少年健全育成基本法」が成立すれば、民間事業者に対する言論統制もより容易になる。

 

 

◇「子どものために」というマジックワードによって、生き方や考え方が管理統制される未来へ

 

冒頭の繰り返しになるが、「家庭教育支援法案」は、母親・父親と子どもだけの問題ではない。日本社会で生活するすべての人々の問題だ。「家庭教育支援法案」と同時期の成立が目指されている「青少年健全育成基本法」もまた、「不健全」とレッテルを貼られる危険性があるメディアや表現者だけの問題ではない。基本的人権を有する、すべての人々の問題である。
 

「家庭教育支援法案」の場合は、いじめやひきこもりがある、「ダメな親」がいる、子育て期には支援が必要だということを突破口に、すべての人に「あるべき姿」「あるべき考え方・感じ方」を強制する、内面に関する管理統制システムがつくられていく。「青少年健全育成基本法案」の場合は、青少年に「有害」なメディアコンテンツを規制するということを入り口にして、すべての人の言論・思想・表現の自由を脅かす、つまり国家権力による検閲を拡大強化していく道が拓かれる。
 

どちらも子どもを人質にする流れだ。わたしたちは「子どものために」と言われると弱い。家庭にしても、メディア情報にしても、子どもにとって危険だと思われる例を強調して、立証されていない因果関係を持ち出し、「してはいけない/考えてはいけないこと」と「すべきこと/信じるべきこと」のリストを増やす。そうして、わたしたちの自由は確実に奪われていくだろう。自分には関係のない、部分的な規制だからよいだろうなどと、ぼんやりと考えていたら、これらの法律は、成立した途端に普遍化され、すべての人をしばるものになるはずだ。
 

自民党の憲法「改正」案の第五条が、国が定める「緊急事態」には、種々の自由や財産権などの「私権」が制限される内容になっていることが公表され、多くの人を驚かせた(2018年3月6日付毎日新聞朝刊)。「家庭教育支援法案」と「青少年健全育成基本法案」、さらには憲法「改正」の流れを見ていると、戦前の家族制度や言論統制、国家総動員法の亡霊がひきずりだされているような恐ろしさを感じる。
 

日々忙しい人が多いだろうが、ぜひ各種の法案を読んでいただきたいと願う。「疲れた」心身は、身に迫る危険を察知しにくくなる。危険を察知してもなかなかそれと闘えない。しかし、仮に「疲れて」いたとしても、権利を持った主体であるがゆえに、筆者は身に迫る危険を、できるだけ多くの人とともに、しっかりと見極めたい。