明治12年生まれの作家永井荷風は、明治の時代を33年間生きて『われは明治の児ならずや。 その文化歴史となりて葬られし時 わが青春の夢もまた消えにけり… 』と、作品「震災」に詠みました。
荷風はまた随筆「雪の日」で、竹馬の友と二人で向島あたりを散歩中、雪が降り出して入った掛茶屋での情景を、『友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩くて迷惑なら壜詰を下さいと言うと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭を取りながら、お上んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜のした女であった。焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いぢや御在ませんかと親し気な調子で、置炬燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転がきいている。こういう接待ぶりも其頃にはさして珍しいと言うほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見難く、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえって来ない。短夜の夢ばかりではない。』と書いています。
電気もラヂオも自動車もない、文明の恩恵からは程遠かった明治時代は、戦時色一色で軍閥政治家が突っ走って起こした戦争により、国土が破壊され人心も荒んでしまった大正、昭和の時代と比べ、人情溢れる暮らしよい良き時代であったということでしょうか。
戦後の昭和を30年以上生きたawakinは、自分を『昭和の児』だと思っておりますが、こどもであった頃は、携帯電話、テレビゲームなどドラえもんの世界で、夢のまた夢、壜コーラの自動販売機が世に出始めたころですから支払いはいつもニコニコ現金払い、小銭をじゃらじゃらポケットで鳴らしながら街なかを歩いていたものです。
きょうはそんな昭和の話題をひとつ、地場広島の岸本牛乳の想い出を綴ってみたく、まずは会社がなくなってしまった今でもスーパーに行けば売っている、紙パックの岸本牛乳を載せてみたいと思います。
先日近場のスーパー「ゆめテラス祇園」で見つけ買って帰った岸本の紙パック。
昔は三角形のテトラパックがあって、平和公園内の公会堂で行われただれかのコンサートの合間に、買って飲んだら中身が腐っていて吐き出したことがあるのを覚えておりますが、今日気がついたのは、岸本牛乳と言えば新庄バラ園ゆかりのロゴマークがなくなっている!ということでした。
岸本牛乳は平成10年(1998年)に三篠から橋ひとつ隔てた放水路のむこう岸にあった工場を閉じ、山県郡に本社がある広島協同乳業㈱に統合されてしまったのですが、統合された後ロゴは廃止されてしまったのか?、勤務先の休憩室に岸本牛乳の自販機が置いてあり、当時も懐かしがって写真に撮ったことがあるのを憶えていたのでアーカイブを探してみました。
昔自宅で撮影した岸本牛乳の紙パック(撮影日:2010.8.1)
やはりこの頃の製品には岸本牛乳のロゴだった赤色のバラが描かれています。
いつのまにかデザインが変更されてしまったようです。
念のためと思って統合先の企業のウェブサイトを覗いてみると…。
左上すみに見紛うことのないキシモトの赤色のバラが描かれています。(赤丸内)
なんか岸本牛乳がまだ生きているように思えるのは、小さいころの想い出がいっぱいあり過ぎるからでしょうか。
隣に住んでいて、小学校に通った6年間毎日学校まで誘い合わせていっしょに行った同級生の家は牛乳屋さんでした。取扱いはもちろん岸本牛乳で、自宅には大きな業務用の冷蔵庫があって、夏の暑い日には涼みに交代で中に入らせてもらっていました。牛乳を配達してくる幌付きトラックの荷台に乗せてもらい、広島市内を廻り回ったあと、大州あたりで降ろしてもらって歩いて帰ったり、ママグルトとかヨーグルトの新製品が出ると一番に食べさせてもらったりと、楽しい想い出ばかりの岸本牛乳です。
会社の社章にロゴが遺り、未だ工場がそこにあるように製品がスーパーの陳列棚に並んでいる。
遥かに過ぎ去った昭和を思い起こすのに十分な環境で、感謝したいと思うところです。