天保七年の後半は全国的に餓死者が続出し捨て子は数知れずという悲惨な飢饉となったのである。(中略)同じ甲州でも甲府盆地の東の部分を郡内地方と言っていたが、そこで十六の宿場と近隣の農民たちが一斉に蜂起したのであった。郡内地方は甲州街道の宿場負担が嵩む一方、特産の織物が不振に陥りそれに加えて天保の飢饉に遭遇したのであった。餓死人、捨て子数知れずという惨状にあって、頼みとする甲府盆地の米穀商からは一粒の米も送って来なかった。そのために激怒した農民たちの一揆となり、それに無宿人、盗賊、乞食などが加わった。無差別の打ち毀しに発展した一揆は、盗み、略奪、強姦、放火と暴虐をほしいままにしながら三千人の大集団にふくれあがった。』(木枯し紋次郎「湯煙に月は砕けた」)

 

紋次郎が諸州を放浪していた江戸期、天保年間に起こった郡内騒動(甲州一揆)について笹沢左保さんは原作の中で詳しく説明されています。

 

このとき紋次郎は三島宿のはずれで右ひざに怪我をしてしまい、その原因となった暴れ馬に轢き殺されそうになっていたのを助けた娘から、豆州にある実家の湯治宿で養生するように勧められ、その言に従い修善寺の南四里の山の中にある峰湯という小さな温泉地に腰を落ち着けていたのでした。

 

そこへやって来たのが、隣接する沼津藩と諏訪藩の藩兵に鎮圧されて甲州から逃げ延びて来た一揆崩れのならず者たちでありました。

 

テレビ版の木枯し紋次郎、1シリーズ・第9話『湯煙に月は砕けた』(1972)で、ならず者たちの副将・弥七(右の人物)を演じる長谷川明男さん

 

この方、八代目松本幸四郎さんが鬼平を演じた『鬼平犯科帳』(1969)では、同心の沢田小平治役で正義の味方だったのが、こちらではとんでもない悪党を好演しておられます。無気力、無関心、無感動、この世に何の希望もないような表情で、他の者が誰もやらない残酷なことを平気でするという役どころ、沼津でべっこう細工の職人をしていたのがちょっとした諍いから店を飛び出し、それからわずか一年でこんな心が荒みきった人間になってしまう。

 

天保年間というのはそんな騒乱と荒廃の時代だったことを感じさせる名演技だと思いますが、その天保年間、甲斐国から遠く離れた安芸の国、広島でも飢饉は起こり、その痕跡は200年近く経った現代でもしっかりと残っているのです。

 

広島県安芸太田町加計・常禅寺 天保の飢饉で行き倒れてなくなった人達の供養墓

 

「嗚呼不幸疫死諸人の墓』

江戸時代に頻発した飢饉や疫病は、太田・奥山筋では「がしん」とよばれ、享保、天明、天保期を主に被害甚大でした。わけても天保七(1836)年は、春以来の長雨と冷害で史上まれにみる凶作となり、米価は高騰、翌八年には疫病が大流行し、餓死と疫死が重なって、加計組で実に村人の26%が死亡、一家死絶も続出しました。

常禅寺境内の墓碑は翌九年に、野の遺骨を集めて建てられたものです。その銘に「人死するも葬埋なし」と儒者山口西園が世に「天保の大飢饉」とよぶ惨状を誌しています。

 

因みに同じころの外国の様子はどうであったかというと、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると、1830年、英国のリヴァプールとマンチェスター間で、史上初めて営利の鉄道サービスを開始した(1830年=天保元年=文政13年、同年12月10日に地震災異などで改元!)とあります。

 

そう、英国は産業革命の真っただ中、20年後の1850年(嘉永3年)には鉄道路線は数万㎞に伸びており、参勤交代の大名行列に庶民が土下座していた日ノ本との国力の差に唖然とするばかりですが、それだけに列強の植民地にされるのを防いだ先人、国士の皆さんには頭が下がる思いです。