JR三江線が廃線になる前に一度だけですが江津駅から石見川本駅まで乗車したことがあります。所謂乗り鉄ですが、ハコに乗っての写真撮影はなかなか難しく、事前に可部線や山口線で練習していったにもかかわらず、満足できる写真は一枚も撮れませんでした。

 

先日テレビを観ていると吞み鉄の六角さんが出ておられ、最近プライベートで芸備線を乗り通してみたけれど、自分のほかにはわずか1名しか乗っていなくてこれは厳しいと感じたそうです。

 

俳優さんと張り合うつもりはありませんが、awakinも芸備線を乗り通してみたくなり計画を立ててみました。1泊2日で広島⇒新幹線で岡山⇒やくもで備中高梁(泊)⇒在来線で新見⇒備後落合⇒三次⇒広島といった塩梅で、2日目に新見の13:02発に乗車できれば広島には18:14に到着できるようです。

 

昔友人の結婚式で米子まで乗車した特急やくも、来年4月からは新型車両が走ることになっていますから、出来ればなくなる前の旧型に乗車したいと思うのです。そして寅さんのロケが何度も行われた備中高梁、半日観光できるはずで帰りは芸備線の乗り通しです。JTBで宿と切符が取れるかどうかわかりませんが、左膝の目途が立ったら出かけてみたいと思うところです。

 

その廃線が検討されている芸備線の区間を、awakinはこれまで一度も乗車したことがないのですが、敬愛する民俗学者宮本常一さんは「旅する巨人」の異名の通り、同線区を何度も利用して旅しておられたようです。

 


宮本常一さん撮影の芸備線・備後八幡駅

 

宮本さんは移動する車窓から撮った写真を数多く残しておられます。

この写真は10年以上前にネットのどこかで見つけて保存していたもので、キャプションに『芸備線で新見に行き、そのまま姫新線で姫路へ出た』と書いてあったように記憶しています。

いつごろ撮影されたのか興味が湧き学者の年譜を繰ってみると、昭和34年6月に「庄原」~「比和」~「高野」~「新見」~「庄原」とあり、昭和45年11月にも「宮島」~「庄原」~「東城(帝釈峡)」~「名古屋」~「賢島(三重県志摩郡)」とあります。ほかにもご家族で備後落合で一泊され、木次線で宍道へ出られたこともあったようですが、備後八幡駅から東城方面へ乗車されたのは先の二回だけのようで、写真はこのどちらかで撮られたのではないかと推定するのです。

 

写真に目を移すと、線路脇にうず高く積まれているのはコークス、そのむこうは砂鉄でしょうか。それと建屋と建屋の間の地面に軌道が敷かれているのが見えています。あの軌道は谷間へ下ったところにある帝国製鐡竹森工場へ続いていたはずで、鉄滓から鉄を製錬していたその工場は昭和38年に廃業しているので、宮本さんが上の写真を撮られたのは昭和34年6月の訪問時ではなかろうかと思うのです。

 

awakinもこの秋、備後落合駅で「おろち号」に出逢った帰り道に、備後八幡駅に立ち寄って70年の時の経過を感じてまいりました。

 

 


宮本さんが乗車していた車両が停まっていた待避線は、70年の時を経て今はちょん切られています。かつては長大編成の急行が行き交った備後八幡駅ですが、今では一日わずか3本の普通列車が停車するだけになっています。

 

むこうに見える山並みは、当然ながら70年前とまったく変わっておりません。けれどもローカル線を取り巻く状況は厳しくなるばかり、私企業が儲けの出ない事業を止めていくのは当然ですが、公共事業を民間に丸投げしたうえに、地元民を切り捨てて知らん顔をしているように見える国に責任はないのでしょうか。

 


宮本さんが撮影された駅名票は、木製から鉄枠に換えられた後ホームが使われなくなると打ち捨てられて残骸になっています。

使われなくなった石垣造りのホームは、昭和10年に駅が開設された時のままで、汽車がやって来るのを待っているようにも見え寂寥感がいっぱいでありました。