昭和33年に自分が生まれ育った地元、広島三篠の昔に興味があるawakinです。

 

当地は亡き母の出生地であるのですが、母がこどもだった頃、戦前の三篠の町がどんな姿だったのかとても興味があるのです。

 

原爆で一旦焼け野原になり、その後awakinの物心がつく昭和40年代前半には周辺に家がもういっぱい建っておりましたが、それでも現在の三篠とは大違いで、その頃の記憶はモノクロームの断片となって今でも脳内に格納されているのです。

 

小学3年生のころに太田川放水路が完成し、その後区画整理が行われ、広げられた道路は舗装が進み、下水管も埋設されて都市整備が進んでいきました。きょうはそんなawakinにとってオールドな記憶を拾い集めてみたいと思います。

 

記憶の始まりは幼稚園の入園式でしょうか。式のあいだ誰かがひどく泣いていて、その後園庭の遊具で遊ぶと、高すぎて怖い思いをしたのが思い出されます。

当時近所に鬼婆が住んでいました。その婆さんは口の中が真っ黒で、今どきは見かけないお歯黒をつけていただけなのですが、幼い頃は彼女が笑ったりすると不気味で怖ろしく、婆さんか家の前に屈んで洗濯板で洗濯しているときには、近寄らないようにしていました。

 

区画整理がされる前の三篠はどこもかしこも路地だらけでした。家と家の間隔が狭く、敷地が板塀で仕切ってあるような家は少なく、縦横無尽にどこでも自由に行き来していたものです。舗装されていない道は雨が降ると水たまりがいっぱいで、長靴を履いて小学校へ行くのに水たまりの中をじゃぶじゃぶ歩くのが楽しく、自転車に乗ると今度は逆に一生懸命水たまりを避けて走っていたのが懐かしい思い出でしょうか。

 

当時は一日道路で寝ていても自動車に轢かれることがないくらい交通量が少なくて、道路に穴を掘ってメッチン(ビー玉)に興じたものてすが、自宅の前の道を青い馬車を引いた馬がときどき歩いておりました。トボトボ歩く馬がボトッと糞をするのを、馭者はそのまま放っていくので、道を歩くときは気をつけていないと踏んづけてひどい目に遭うという。そんな悠長な時代でありました。

 

その頃撮られた写真を2枚載せてみます。

 


昭和20年代?に撮られた三篠

手前にある踏切は可部線の踏切で左に見えている小山は、現在は太田川放水路の流路になっているでしょうか。戦前には茅葺屋根の建家が山手川沿いにいくつも立ち並んでいましたが、ここにあった農家はすべて原爆で焼かれてしまい、線路沿いには戦後建てられた瓦屋根の家屋が、密集して建てられているのが見えています。

 


昭和34年11月に撮影された掘削前の太田川放水路

後方遥かに見えている山は21世紀の今も寸分たがわぬ白木山、この頃はまだこのあたりは川床の掘削に取り掛かっていないようですが、周囲の堤防はすでに高く盛り土されているのが見えています。黒く見えている竹藪のむこうには、可部線の鉄橋と雲石街道の新庄橋が架かっているはずですが、このアングルでは見ることができません。

 

ひとつ気になるのは手前に見えている(架設?)橋でしょうか。

小さな山手川に架かる、地図にも載っていない名前もないこの小さな橋を、幼いawakinが父と母と一緒に、もしかすると父に抱かれて渡ったような微かな記憶…。断片というよりもっと小さい塵のような記憶ですが、脳内の片隅に残っているような気がしています。

 

そんな心の奥底の風景、何かあったら飛んで戻りたい場所、その日のことをいつか彼岸に渡ったときに父、母と再会し、『あの小さな橋を渡ったのはいつじゃったかいね?』とか『 何をしに行ったの?』、そして『 どんな話をしたっけ?』(戦後対岸の山本川でよく飯盒炊爨をしていたと両親が話していました)などと訊いてみたいと思うきょうこの頃です。