昔、小学生だったころ毎日教室の窓からぼーっと眺めていた己斐の山、広島市内の目に見える範囲の山の中で一番高い山と授業で習った大茶臼山ですが、その頂上にあったマイクロウェーブの中継所はawakinのこころの風景と言ってよい存在です。

 

最近旧い写真集の中にその近景をを見つけたことからちょっとしたマイブームになっていて、その昔実際にマイクロ波の中継の任を担っていたパラボラアンテナが今も保存されていると知ったので訪ねてまいりました。

 


西区商工センターのNTT関連施設の一角に鎮座するパラボラアンテナ

                      (撮影日:2023.8.14)

 

説明版がふたつあり、マイクロウェーブのことがよくわかる内容なので、少し長いですが銘文を載せてみたいと思います。

『このパラボラアンテナは英国のSTC社で製作されたもので、マイクロウェーブの優秀機としてわが国に輸入されました。そして昭和31年4月1日、大阪、広島、福岡間のマイクロウェーブ回線の開通に重要な一役をはたすため、広島統制無線中継所などに設置されました。それから10年の長い間、テレビジョンや電話の中継に活躍し、わが国のマイクロウェーブの発展に大きく貢献してきました。その後、日本のマイクロウェーブ技術のめざましい開発により、いまでは諸外国をしのぐ優秀な国産の機器が次々と実用化されましたのでこの一時代を画したパラボラアンテナもついに姿を消すことになりました。よってここゆかりの地、広島統制無線中継所のふもとにこのパラボラアンテナを建て、マイクロウェーブ発展の歴史と日夜えいえいとその保守運営に携わってきた職員の努力をしのび将来の発展のよすがといたします。                                        

昭和41年3月 日本電信電話公社』(アンテナに付随の銘文)

 

『パラボラアンテナの記念碑 無線通信の歴史は1895年マルコーニの無線電信の発明から始まりました。その後の無線技術のめざましい発展により、日本電信電話公社発足から間もない昭和27年(1952年)にマイクロウェーブによる大容量の通信回線が進められ、市外電話やテレビ放送用中継回線として全国に張り巡らされ今日まで運用されてきました。 このパラボラアンテナは昭和31年(1956年)から当時の広島統制無線中継所(己斐局)で使用されたイギリスのSTC社製のもので10年間使用した後、国産のアンテナに更改されたのを機に記念碑として己斐局の麓に設置され、その後の昭和59年(1984年)の広島統制無線局中継所の無人化とともに山上に移設されたものです。 アンテナに記載された碑文は昭和41年(1966年)記念碑として設置された当時のもので37年の歳月を経過しています。 2003年はテレビ放送が始まって50年目の節目にあたり、この時期にテレビ放送用中継回線は光ケーブルにその役目を受け継ぐことになります。このため、己斐の山上局も間もなくその役目を終えることになり再度アンテナ記念碑をこの地に移すものです。 定礎 平成15年9月30日』(アンテナ下の銘文)

 

超長い引用で恐縮ですが、碑文の内容はawakinにはとても興味深く、碑文を読むだけでいろんな想いが交錯します。

碑文から日本でテレビ放送が始まったのは1953年(昭和28年)だとわかります。当時は(多分)高価だったテレビをawakinが住む三篠で一番最初に買った羽振りのよい親戚がいて、毎日見せてもらいに行きよったと亡母が話してくれたことや、物心ついたときにはすでに白黒テレビが家にあって最初の記憶がケネディ暗殺(1963.11.22 当時awakinは4歳でした)であったことが思い出されます。

 


生家でテレビ様の前に陣取っているのはおそらく幼稚園に入園する前のawakin兄弟です。もしかすると東京オリンピックの入場行進を見ているのかもしれませんが、このときの画像を上記の英国製パラボラアンテナが中継してくれていたと思うと感慨深いと思うのです。

 

三篠の鉄橋を渡る貨物列車と遠くにマイクロウェーブ(撮影日:2013.3.3)

 

10年前に撮った写真ですが、この頃はまだアンテナ塔がマイクロウェーブ横に建っておりました。今は取り壊されてしまったアンテナ塔ですが、awakinが小学生だったころには同じ場所に職員の通勤用ロープウェーの発着所がありました。

当時はまだ現在の畑峠へ上がる道路がなかったためで、awakinは小学生のころに一度武田山、火山から広島南アルプスを縦走して己斐に向けて降りたことがありますが、そのときはその峠道が造成中で未舗装の泥道を駆け下りたものです。

 

碑文には通勤用のロープウェーのことは何も書かれてありませんが、職員の努力に報いる言葉は書かれてあり、ロープウェーで通勤していたのが道路が出来てクルマであそこまで上がるようになり、やがては無人化されてついにはデジタル化でその使命を終える。

 

詮無いことですが歴史とはそんなもので、教室の窓から見上げていたころから50年超の時間が経過した今では、元からあったマイクロウェーブの建物がそのまま残るだけになっています。