ちょうど1年程前のことですが、かつて旧芸北町の樽床にあった旅館・峡北館の宿帳35冊が見つかり、所有者が町に寄贈したという記事が新聞に載りました。

 

峡北館は大正末期から観光化され人気となった名勝三段峡の入口に立地していた旅館です。三段峡を訪ねた著名人、それは植物学者の牧野富太郎さんであったり、児玉希望、丸木位里といった画家だったりしたわけですが、彼らの署名のほかに歌や画が併せて残されていることが話題になりました。

 

宿帳は町でデジタルアーカイブされたあと広島県立文書館に保管されるとあり、記事から1年が経過していることから電話してみると、すでに宿帳は文書館に来ていて閲覧も可能ということでしたから早速足を運んでまいりました。

 

というのも峡北館には敬愛する民俗学者宮本常一さんが宿泊し、宿の主人から当時の樽床の民俗採集を行った旅館なので、彼の足跡を確かめてみたいと思ったのです。

 

『(昭和14年)11月28日  旅装を整えてたつ。雲間より青空見ゆ。大朝の町にて八幡行のバスに乗る。八幡は海抜800mの高原にして散在する農家の様さびし。終点にて車を捨て、蓬屋という古風なる宿にて昼飯を食う。この家の老女より樽床の後藤吾妻氏よき話者なるを承り、二時近く樽床に向ってたつ。途中雪深く歩き難し。樽床は八幡の南一里半。後藤氏は峡北館という宿を営む。夜半まで村の組織、農耕などについて聞く。 11月29日  午後三時まで後藤氏より民俗についてきく。よき話者である。ただし多忙にてこれ以上のお手をとどめるは相すまず、先を急ぐ故出かける。峡北館を出れば直ちに三段峡の勝。途中日暮れて道あやうく、漸く横川に出て、上田九平氏宅にとまる。』(宮本常一著作集23・中国山地民俗採訪録「採訪日誌」)

 

宮本常一さんが小学校教師を辞め、民俗学者としてスタートを切ると同時に行った民俗採集行です。行程は山陰島根半島~西中国山地~周防大島でその間の一コマということになります。日誌によると丸一日峡北館に滞在したようで、その日に宮本さんが滞在した証を宿帳に記載していないかどうか探してみるとありました!

 


峡北館の宿帳

宿帳は1924年から旅館がダムの底に沈んだ1957年までの35冊ですが、電話で対応してくださった学芸員の方が10冊ほど抽出してくださっていたのを、きょう(14日)受付けにおられた親切な担当者の方にご配慮いただき、ゆっくりじっくり拝見することができました。


上記の宿帳の1ページ

採訪日誌の日付とぴったり一致し、宮本常一さんの雅号「畔人」の署名が見えます。

(宮本の詠んだ歌集や詩集8点は「樹陰」が私家版として刊行されている他は未定稿である。これらは宮本の民俗学者ではない別の一面を垣間見ることができる資料である。これらに宮本は「畔人」、「恵薫」という名を用いて署名している。「山口県の文化財 宮本常一『宮本常一関係資料』より引用)

 

awakinには右ページの歌が何と詠んであるのかわからないのが残念ですが、見覚えのある宮本常一さんの角かくした楷書の字体、筆跡が目に入ってきたときには正直トキメキました。

 

歌人でもある宮本常一さんが遺したこの歌の意味が知りたいと思うのです。

 

宿帳が保管されている広島県立文書館では古文書解読の入門講座を実施しておられるので読める方がおられるはずで、是非再訪し歌の内容を伺ってみたいと思うところです。

 

それにしても旧い旅館の宿帳の1ページだけで夢が枯野を駆け巡ります。

 

日誌に宮本常一さんが当日昼ご飯(冷たい豆腐で歯に沁みたそうですが)を摂られた八幡の蓬屋旅館は今は個人所有の別荘になっておりますが、こちらの宿帳は遺されていないのでしょうか。牧野富太郎博士がカキツバタの群落に感激して花をシャツに擦りつけたあの日、博士は泊まっていた蓬屋旅館を徒歩で出発したあと件のカキツバタ群落と出逢ったのです。

蓬屋旅館のほかには庄原市の備後落合駅そばにあった旧大原旅館にも宮本常一さんは後年家族と一緒に宿泊しておられます。大原旅館は昭和の初めに松本清張さんが宿泊された旅館でもあります。『砂の器』の重要なファクターである出雲弁で夜通し話続ける夫婦と出逢った旅館でもあり、この旅館の宿帳も遺されていてほしいもので、もし出逢えることがあれば是非拝見したいものだと思うところです。