ノーベル賞は50年経ってから候補を公開することになっているそうで、10年前には1963年に三島由紀夫氏が文学賞の最終候補から一歩手前で漏れていたことが公開されました。

 

ノーベル文学賞というと毎年10月になると村上春樹氏の名前が取りざたされ、マスコミなど関連業者が大騒ぎしたあと結局今年も落選!というのが恒例行事のようになっている感があります。その村上さん、SNSをまったく見ないと公言されていて、その理由は大体において文章があまり上等でないからだそうで、まずい音楽、まずい文章というのはなるべく聴かない、読まないに越したことはないそうです。

 

同じ作家でも松本清張さんは『美しい文章よりも 真実の文字を書きたい』と色紙に書いておられ、作家も人それぞれ、いろんな考えがあるものだと思ってしまいます。

 

文章の鍛錬になればと始めたawakinのブログ、初め頃はきっちり推敲に時間を掛けて公開していたのが、最近は下手な写真のキャプションをちょこちょこっと書いて茶を濁しているのが本当のところです。こんなんでいいのかなと自問自答する日々ですが、雑音は気にせずに書きたいことを書いていけばいいと半ば開き直って続けていくつもりです。

 

ということで今日は初心に帰って「広島今昔」の話題をひとつ取り上げてみたいと思います。

 

写真集「HIROSHIMA」から、電電公社の己斐中継所

 

この建屋、古代ののろし台のように札幌から福岡までを結んでいたマイクロウェーブ伝送路の中継所で、小学校の窓からよく見え単にマイクロウェーブと呼んで授業中退屈な授業の気を紛らわすのによく眺めておりました。

この写真の目玉は右下に小さく写っているロープウェーでしょうか。

調べてみるとこのロープウェー、当時(昭和40年代半ば)は。まだ建物が建っている大茶臼山の頂上まで道が出来ていなかったために通勤用に作られました。広島のほかには静岡の山原中継所にもう一つ、同様のロープウェーが存在したようです。

 

旧マイクロウェーブ中継所(撮影日:2023.2.14)

 

1958年から電話回線とテレビ回線の伝送を担った電電公社のマイクロウェーブ網は、2006年に全国の回線がデジタル化されたことで終焉を迎えました。

 

全盛期には建物の上部にはたくさんのパラボラアンテナが設置されているのが下界からも見えておりましたが今は全て取り外されています。

ただ窓の数(9個)や2階の踊り場などは50年前のまま残されているようで、隣にあった通勤用ロープウェーの設備は今どうなっているのか、それと下界にはロープウェーの乗り場、降り場があったはずで、痕跡を探して歩いてみたいところです。