雨が続くので今日は昔話を少々、ひさしぶりに地元三篠の昔と今を訪ねるこころ旅をしてみます。 

 

awakinが小学生だった昭和40~46年の広島市内というのは、インフラの整備が始まったばかりの頃でありました。

雨が降れば水たまりだらけになった道、自転車を走らせるのに穴ぼこを避けて蛇行運転していましたが、その道路を舗装するロードローラーがゆっくり動いて真っ黒いアスファルトを踏み固めていくのを学校帰りによく友だちと眺めていました。

 

自動車はまだ高嶺の花で、親の知り合いで持っているのは3人(隣家の大学教授がルーチェ、父親の職場の後輩がキャロル、父親の兄(叔父)がベレット)だけでした。そのころ市内は駐車フリーで、通学途中の道路にもごくわずか自家用車が停まっていましたが、そのどの車にも枕がついていなかったのが思い出されます。(むち打ち症が社会問題になる前の話なのです)

 

自宅の近くを流れている太田川放水路が完成したのもその頃で、当時は下水はあってないようなもの、青緑っぽい色をした川底のドブがそこらじゅうにあって、雨が降ると道ばたに大きなヒキガエルが出て来たりしていました。広島空港や音戸大橋、家の近くの三篠橋や新庄橋といった社会インフラが出来るたびにニュースになり、親ともども観に行っていたのもこの頃ですが、きょうは同じ三篠にある大芝水門の写真を2枚チョイスして遊んでみようと思います。

 


写真集「HIROSHIMA」から大芝水門

 

橋が架けられた当初は併設の歩道橋がなく、車道と歩道が兼用でクルマが来れば危険がアブナイ橋でしたが、当時は近くの三篠橋にも新庄橋にも歩道専用橋はなく、歩行者の安全などは考慮されないモータリゼーションの黎明期の図と言ってよいでしょうか。因みに橋の南側(写真では右側)に歩道専用橋がつけられたのは昭和48年(1973年)のことでありました。

 


ほんの少し角度が違いますが、現代の大芝水門(撮影日:2023.4.4)

 

水門(橋)自体はまったく変わっていないように見えますが、周辺の様子はずいぶん変わりました。歩道橋が出来て歩行者は安全に通行できる橋になっており、昭和のころには漁業補償でできた釣り堀や養殖場があった場所には高層のアパート(写真右端)が建っています。awakinは中学生になってから、橋を渡ったむこう側、牛田の山の上にあったユースホステルのプールで泳ぐのに、夏休みになると友人たちと一緒に自転車に乗ってこの橋を渡ったものです。

 


昭和の家族写真・大芝水門の橋上から南方向(昭和40年5月撮影)

 

awakin(真ん中)はこのとき小学校に上がったばかりでした。

このころはアストラムラインはもちろん、今通っている片側4車線の県道もまだ影も形もなく、河岸まで民家が密集していたようです。むこうには山陽線の鉄橋が見え、その奥には遠く似島(安芸の小富士)が見えているので、もしawakinが当時この橋の名前をつけることができたなら「富士見橋」にしただろうと思うところです。

 


同じ大芝水門の歩道専用橋から南方向(撮影日:2023.4.4)

 

上の写真から約58年後の風景ということになります。今では専用の歩道橋があるので車道に出ることができませんが、車道の欄干は今も変わらず昔のままです。川の流れだけ見ると時の流れは感じられません。でも高校に上がってから体育の授業で1.3㎞下流に出来た北大橋とこの大芝水門のグルリ3.8㎞を走らされていたawakinにとっては、懐かしい想い出というよりしんどかった想い出が強いかもしれません。

 

もっとも体育の長距離走では断トツに速かったRちゃん、彼は3年の春に甲子園に出て優勝を果たし、卒業後はカープに入って活躍しましたが、今でもときどきラジオで昔と変わらぬ声を聞かせてくれているので、彼と一緒にヨーイドンして見ていたこの景色も今となってはやはり良い想い出だったと言ってよいでしょうか。