『八幡原の宿を出るとまた雪になった。(中略)長者原で道がまた二つに別れる。東に行けば広島へ出る。広島までバスが通っている。三段峡遊覧のために改修されたものであるという。(中略)バスが来ると兵隊はただ一人車に乗った。バスは出征兵ていっぱいだった。車が動くとみんなが万歳をとなえた。』(宮本常一著作集25 土と共に・報徳社)

 

こちらは昭和14年の秋に民俗学者の宮本常一さんが中国地方を歩いて回られたときの旅行記の一節です。昭和14年秋というと真珠湾攻撃の2年前、文面からはこのときすでに広島から三段峡までのバス路線があったことがわかります。

 

それは原爆ドームの対岸、鍛冶屋町にあった旅館が発着所であったという三段峡遊覧自動車の路線で、走っていたのは現代のような大型のバスでなく、幌付きの定員が10人程度の小さな車両だったようです。

 

おそらくは太田川沿いの道路が貧弱で、大きな自動車が通れなかったためでしょうが、戦争中の八幡原には陸軍の演習場があって、芸北八幡の千町原から大佐山の着弾点に向け大砲を撃つ訓練を歳々行っていたそうですから、訓練に参加する兵隊を乗せた軍用車両は、狭い道でも厭わずに太田川沿いを遡ったことでしょう。

 

その太田川の狭い道がどんなであったか、古い写真を探してみました。

 


こちらは広島県立図書館のサイトの「貴重写真コレクション」にある、昭和22年8~10月に菊池俊吉さんが撮影された説明文のない写真です。

 

撮影場所は推定ですが、この前の写真が可部の太田川橋上流、左岸から筏流しを撮影されたものでしたから、そのまま左岸を遡上した柳瀬あたりではないかと思います。

 

場面は視察に出た進駐軍の兵隊を乗せたトラックと丸太を乗せたトラックがちょうどすれ違って徐行しているところでしょうか。左手は旧可部線の路盤がある築堤と思われますが線路は見えておりません。

道路自体は21世紀の現代とさほど変わっていないように見えますが、今もこの同じ道を路線バスが通っていることを考えると、人の往来は当時と変わらず連綿と続いていると言ってよいでしょうか。