広島県立図書館のサイト内にある「貴重写真コレクション」には、興味深い旧い写真がたくさん掲載されていて、ノスタルジックな情景が好きなawakinはよく見させてもらっています。

 

それは木村伊兵衛さん、菊池俊吉さん、大木実さんの3名のカメラマンが、進駐軍が行ったエクスカーション(視察)の記録者として撮影した一群の風景写真で、その一部は写真集「LIVING HIROSHIMA」として出版されています。

 

きょうはその「貴重写真コレクション」の中から、菊池俊吉さんが可部周辺で撮影された2枚の写真を元に遊ばせてもらいました。

 



サイトの説明文には「太田川いかだ流し・英豪軍エクスカーション」、昭和22年8~10月に菊池俊吉撮影とある2葉の写真。

 

題名のとおり川を下っているのは丸太を組んだ筏で、筏乗りがたったひとりで櫂を操っているのが見えています。(下の写真にはもう一艘が先に行っているのが見えます。)周囲の風景は人家はほとんどないものの、今とあまり変わっていないように見え、上の写真には福王寺山、下の写真には当時の太田川橋(現三次市の祝橋)が現在と同じ場所に架かっているのが見えています。

 

この2枚の写真で興味を引くのはやはり川を下っている筏でしょうか。

 

筏流しについてちょっと調べてみると、太田川の筏流しは明治30年頃に最盛期を迎え、大正年間には木材と薪炭の需要が2倍、3倍に増えたために森林が乱伐されて流量の減少し始め、昭和に入ると戦争優先で海軍工廠(呉)などで軍需物資を作るのに使用する電力を賄うためにダムが作られて流量がさらに減少して、昭和10年代にはほとんど廃れていたようです。

 

でもこの写真が撮られたのは戦後の昭和22年、原子爆弾の投下により壊滅した広島市の復興にかかる木材の需要は、それは激しいものであったと推定できます。

 

なので、この写真に見えている筏流しの情景は、広島の復興の礎となったひとびとの姿を今に伝えていると言い換えてもよいかもしれないと思うのです。

 

(長くなるので次回に続きます。次回は当時の道路事情と筏に組まれた木材がどこから運ばれてきたかを考えてみたいと思います。)