今年は戦後何年だったでしょうか。



原子爆弾が投下されてからの年数ですが、2017年 - 1945年 ですから 72年 ということになるでしょうか。



原爆の被害を受けた所謂被爆建物、年々その数を減らしてするのが現実で、本通りのアンデルセンに続き、旧広大のシンボルであった広島大学旧理学部1号館も耐震費用が莫大かかるそうで、保存形態について会合がたびたび持たれているようですが、建物全体を現状のまま保存するのは難しいかもしれません。



もしかすると他の被爆建物と同じように、プレートに写真を飾ったようなモニュメントに姿を変えるかもしれないと思い、建屋が残っているうちにと職場からの帰り道、遠回りして広島大学旧理学部1号館、撮ってまいりました。



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旧北門があったあたりから眺める旧理学部1号館。



大学敷地内にあった他の建物は全て取り壊されていて、一部は更地で公園の様な使われ方をしています。



旧い建物で現役を離れてしまった建物の宿命でしょうか、何となく廃墟化しているような感じがすると言ったら怒られるでしょうか。



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高校を卒業した年ですから昭和52年のことですが、受験生だったawakinはここ広島大学を受けにこの場所に来ておりました。



昔のことで、当時はセンター試験の前の共通一次試験も行われていない時代で、国立大学は一期校と二期校のふたつの区分で試験が行われておりました。



忘れもしませんが、3月の3、4、5日の三日間、5科目の試験でしたが、初日は大雪で、試験会場はこの旧理学部1号館の中の一室でありました。



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旧正門からの眺め、一番奥にこちら向きに旧理学部1号館は建っています。



学園紛争が激しかったころはこの場所には机やイスでバリケードが築かれており、中の様子はよく見えなかったですが、何もなくなった今は木々が繁茂してやはり中が見えにくくなっています。



awakinはここへは、浪人していた一年間、右手少し入ったところにあった大学図書館が夜9時まで自由に出入りできていたので、予備校が引けたあとに最終までよく勉強したものです。



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こちらは何故かわが家にある広島大学理学部移転記念の銘のある絵はがきのコピー。



理学部が東広島市へ移転したのは平成3年のことだそうですから、その前後に撮られたものでしょうか。



 
awakinは広大を二回受験し、結局東京の学校に通ったのですが、浪人時代の学友が多数進学した広大へは帰広したときによく来て、友たちと野球や卓球をしたり、学園祭でともにキャンパスライフを満喫したものです。



 
当時の残り香がほんの少し漂うのを感じながら、横川行きの電車を待つ停留所の名は「日赤病院前」に変わっておりました。



 
以前は「広島大学前」だった停留所、やはり一抹の寂しさを感じてしまいました。