『出雲は母が早くからいちどまいりたいと言いつつとうとう今日までまいるおりがなかったもので、思いたって一家のもので来ることにした。大社まで来るともう日がかたむいていた。(中略)この町から湖の北岸を松江へいく電車が通っている。それにのって小境灘駅(現・一畑口駅)へ下車したときはすっかり暮れていた。』(宮本常一著作集25巻・追記「出雲への家族旅行」)
宮本さんがご家族といっしょに出雲を訪ねられたのは、昭和31年11月だったそうです。
awakinも宮本さんに倣って、家族とともに出雲大社駅から雲州平田駅までバタ電に乗ってみました。
この車輛を利用したのですが、この電車元々は東京の京王電鉄の車輛で、昭和50年代に東京の調布市内の下宿から都内のW大学に通っていたawakinにとってとても懐かしい電車なのです。
何しろ毎日京王多摩センターという駅から、新宿までこの色、この型の同じ電車に乗って通っていたのですから…。
車内アナウンスを流すスピーカーに残るKTR(K・京王、T・帝都、R・レールウェイ)の刻印が…。
当時(40年近い昔のことですが)は栄養が十分に足りてなく、今より20㎏超痩せておりましたが、学校帰りに満員の電車に揺られながら立っていると意識が朦朧としてきて、どこかの駅に着いて開いたドアからフラフラとその駅のベンチに座り込むとそのまま寝込んでしまったことなど、つまらないことを思い出してしまいました。
何でもない田園風景ですが、こちらはバタ電の車窓からスマホで撮った動画からキャプチャした画像。
何故このような画を載せたかというと、電車が旅伏駅を出発した直後、車内アナウンスが流されていたのです。
『次の停車駅は、雲州平田、雲州平田です。Next station is Unshu Hirata. 』
そう、昭和8年に宮本常一さんが聞いたと言われる『次はウンスンフィラタ(雲州平田)でございます。』がどうなっているか確かめようと、流れるアナウンスを録音しようとしていたのです。
残念ながら今はワンマン運転となり、テープに吹き込んだ標準語のアナウンスが機械的に流れるだけでしたが、そのあとの新幹線みたいな英語のアナウンスが流れたのには驚きました。
awakin的には、他国語の放送より、松本清張さんの『砂の器』でも有名な、出雲の地元の言葉で案内して欲しかったですし、そのほうが地元に根づいた私鉄らしいと思うのですがいかかでしょうか。
『出雲は人情のあついところである。昭和九年八月、出雲路を歩いた時も多くのよき人に逢うた。一畑から松江へ行く電車の車掌の印象は今もあざやかである。訛りの強い人でハヒフヘホをファ・フィ・フ・フェ・フォと発音し、シがすべてスにきこえるほど訛っていたが、その言葉とともに沿線をこまかに説明してくれた好意が忘れられないのである。』(宮本常一著作集25巻・土と共に「親切な人々」)
映画「レイルウェイズ」のラストシーンが撮られた真にその場所ですね。
『 終点まで、ちゃんと乗ってってくれよな…。 』 『 はい…。 』
最後の台詞が思い出されます。
一畑口駅(旧・小境灘駅)から北方向の眺め。
目的地の一畑薬師は左前方に見えている山の上です。
『小境灘駅から一畑薬師の下まではバスがある。もとは電車もはしっていたが、いまとりはずして、線路をバス道路にしている。』(宮本常一著作集25巻・追記「出雲への家族旅行」)
戦争中に不要不急路線という理由で取り外された線路は今もそのままです。
ただ、昭和31年にはバス道路であったところも、宮本さんが最初に訪ねた昭和9年8月にはあと3.3㎞ほど線路が伸びていたはずですが、そのとき宮本さんが終点の一畑駅まで電車に乗ったかどうかは、『隠岐へわたるために、大阪から大社まで汽車にのり、大社からこの一畑に来てとまったのである。』としか書かれていないのでわからないのです。
今から60年前のある日に、宮本さんの家族が一畑薬師まで乗ったバス路線は、今も健在のようです。
一畑薬師の傍には立派なバスターミナルがあり、待合に貼ってあるこの時刻表を見ると、平日7本、休日3本の便があります。
大田市出身の知人の話では、お寺の近くにかつては遊園地(一畑パークといったそうですが)があり、小学校の遠足とか、家族旅行でよく来ていたそうです。
信仰が今よりずっと篤かった昭和30年代、そして遊園地が賑わった昭和40年代には、バスの便も今よりずっと多くあったことでしょう。
信仰心が薄れ、遊園地もなくなってお寺だけが残った現在、寂れてしまってほとんどのお店が閉じてしまっている門前町を通り、お薬師さまに眼病平癒を願って願掛けしてまいりました。
それと両参り(出雲大社と美保神社ともにお詣りすること)や宮本さんも少し書かれている島根半島四十二浦巡り、あるいは久方ぶりに訪ねた島根原発などの記事は、後日、機会があれぱアップしていきたいと思うのです。