民俗学者の宮本常一さんは、日本国中すみからすみまで歩いて民俗調査を行ったことから「旅する巨人」の異名を持つ方ですが、生まれが隣県山口は周防大島のためか、awakinの住む広島県にもたびたび調査で入られており、われわれ広島人と比べてもよほど県内を歩いておられることはその著書を読めばすぐわかることであります。



その宮本さんがそれまで勤めていた小学校の教師を辞め、東京へ出て本格的に民俗学者として出発する起点となった旅があります。



それは昭和14年11月に島根県石見の田中梅治翁という人物から話を聞くことを主目的に、中国山地を東から西へ歩いた旅で、その行程が西中国山地で写真を撮り歩いているawakinの行動範囲と重なるために特別の思い入れを持つようになり、宮本さんの後追いのようなことをするようになりました。



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『石見に入る前に島根半島を歩いてみたいと思って、一七日朝、松江で汽車を下りた。空は曇っていたが大山はよく見えた。山陰の野はちょうど収穫期で、いたるところに稲架が連なっている。松江へ下りた私は笠浦行きのバスに乗った。笠浦は半島の北岸にある漁村である。そこのあたりから海岸を歩いてみたいと思った。』(宮本常一著作集25巻「土と共に・村上という家」)



民俗学者として旅の起点となった笠浦を訪ね、宮本さんがかつてバスを下りたはずのバス停を探してみました。(写真はすべて2017.5.27に撮影したものです。)



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『バスが中海のほとりから山をこえて北斜面へ下りてくると、海の向うに隠岐が見える。』



平成の現在では立派な県道が岬の岩塊を穿ってトンネルができていて、半島の先っぽまでアッと言う間に行けるようになっているようです。



その新しい県道を外れ、曲がりくねった旧道?を下りてきて笠浦の港へやって来ました。



バス停を探していると自宅の前に座っておられた老婦人に聞いてみると、親切にも立ち上がって案内してくださいました。



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『笠浦でバスを下りて地図をたよりに北へ歩き出した。笠浦は小さな岬の根にある物静かな漁村である。忙しい時なのでひっそりしていて村には人かげも少ない。』

中央のビニールの波板で囲まれたところがバス停で、わかり難いですが戸口の上のところに町民バスと書かれた丸いプレートが掛かっています。



案内してくださった老婦人の話す言葉がとても聞き取りにくかったのですが、今は松江からの直通バスはなく、学者が中海のほとりと書いた万原というところから、一時間に一本くらいの便があるそうでした。



『その道を歩いていると老人に逢った。(中略)「しばらく待っておれ、私は米を買いに来たのだが、米を買うたら船でかえるから便を貸してやろう」という。笠浦から北への道は未だ昔ながらの細道で、いたって不便なので、歩くものは大してない。たいていは船で笠浦まで来るのである。』

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『この老人の村である野井もちょうどそういうところであった。それに今日から鰯の大敷網を下ろす準備にかかって、村はなかなか忙しいとのことである。船が野井の浜についてみると、老人の言ったように村人の大勢が出て大敷の垣網のシズ(沈子)にする土俵を作っていた。』



写真は宮本さんが老人が操る船に乗って着いた野井の浜から笠浦方向の眺めです。



陸地の左端に少し見えている民家が笠浦で、awakinはあそこから海岸沿いのかなり高いところに造られた車一台が通れる幅の旧道を通ってここまでやって来ました。

宮本さんがここに来た戦前にはその道は歩くにも危ないような道だったようで、目の前の海、宮本さんは「青い波がふくれてはのびる。船はそれにのってゆらりゆらりとゆれる。」と書いておられますが、この海をのんびり船で渡る姿が見えるようです。



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野井の港から外洋、日本海の眺め。



awakinはここで初めて隠岐を認めました。

宮本さんが老人の船を下りたとき、同じ景色を見たはずですが、彼の目にも隠岐は写っていたでしょうか。