昭和14年に中国山地の民俗を採集して歩いた宮本常一さんは、山間部に入る前に松江で汽車を降り、島根半島の沿岸部を歩いておられます。



そのときのことは、彼の著作集25巻に収められた『土と共に』を読むと知れるのですが、中でも興味深いのは、そこここで隠岐が見えると書いておられることでしょうか。『バスが中海のほとりから山をこえて北斜面に下りてくると、海の向こうに隠岐が見える。隠岐へは縁あって二度も渡ることができた。』(「土と共に」・『村上という家』)
 



何しろ宮本さんの故郷である周防大島の山に上がると、阿蘇山の噴煙が見えたといわれる時代のことですから、黄砂はともかく、距離的には近くても世界の果てにあるように思える隣国から垂れ流されるPM2.5が、連日やって来る現代日本では無理なことだろうと諦めておりましたが…。



 
美保基地でのブルーの予行が午前も早い時間に終わったため、宿泊地である松江を観光する前に、宮本さんが約80年前に歩いた島根半島の浦々を車でですが辿ってみることにしました。



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awakinが今回の旅で、最初に隠岐が見えることに気づいたのは野井の港でありました。



こちらは野井の港の景色で、沖合の岩礁?と左から伸びている防波堤の間、ちょうど画面の真ん中あたりにうっすらと隠岐が見えています。



『「しばらく待っておれ、私は米を買いに来たのだが、米を買うたら船でかえるから便を貸してやろう」という。笠浦から北への道は未だ昔ながらの細道で、いたって不便なので、歩くものは大してない。たいていは船で笠浦まで来るのである。』(「土と共に」・『村上という家』)



ここ野井の地は、80年前に宮本さんも訪れておられ、そのときは松江から乗って来たバスを降りた隣の集落・笠浦からの道が細道なので船で移動したそうですが、今では立派なトンネルで抜ける立派な道がついています。



といっても、へそ曲がりなawakinはかつての細道を拡幅した旧道を通って笠浦から野井までやって来たのですが…。

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岬の突端の高台にある「マリンパーク多古鼻」の展望台から見た隠岐。



むこうまで直線距離で50㎞くらいあるでしょうか。

『いっそ一気に半島の突端にある沖泊まで行ってみようと思った。』(「土と共に」・『挨拶』)



展望台は、沖泊へ下っていく下り坂を下りずに上がった丘の上にあります。



80年前は岬の途中の道道には芋畑があり、取入れで人々が忙しく仕事しながら皆々が挨拶を必ずしてくれると書かれておりますが、今の世では人家はなくなり、誰一人会う人もない道を寂しく通ってここまでやって来たのでありました。



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こちらは片句の港を見下ろす高台からの眺め。



遥か沖合に隠岐の姿が認められます。 
 



片句は島根原発がある集落で、この場所から右方に一キロも行かない場所に三号機の建屋が建っています。(この後訪ねた島根原発の見学施設は高台にあるため、島前だけでなく、島後もうっすらですが見ることができました。)



 
この村には宮本さんは二日間滞在し、山本先生という方から聞き取りを行い「出雲八束郡片句浦民俗聞書」(宮本常一著作集39巻)を書いておられます。

そのとき隣の集落の御津からの尾根に造られた細道を片句まで歩いてこられたそうですが、その道がそのまま拡幅された県道37号線から見える広大な埋立地に建てられた三基の原発、あるいはそこから伸びる超大型ダンプが悠に潜り抜けられそうな、巨大な土管が敷設されているのを目の当たりにされたら、旅する巨人は何と言われるでしょうか。