悟りたい、思考を超越したいけれど
むりなのかもしれないといった
焦りや不安を感じているといった
メールをいただき、そのことについて
少し、話をしてみました
~がほしいけれど
現在の自分は、それをもっていない
といった不足へのフォーカスは
状況や物事などの形あるものと同様に
悟りたいといったスピリチャルな願いに
関しても、望む経験をとおざけるものです
すべての願いは、願望そのものの
純粋なエネルギーにあくせすする
きっかけであるからこそ、
まさしく、今、ここのうちに、
すでにそうである自分に気づくこと
その波動にアクセスするだけであり
とくに、悟りたいといった
ストレートな、本来のご自身への気づきと
つながり、その経験というのであれば
なおさら、今、その空っぽなスペース
満ち満ちた豊かな流れに気づく
つまり、思考を超越したいと願っている
から、今、思考を超越する、手放し、
リラックスして、自然な状態であれば
いいわけですよね
シンプルに思考を超越したい
悟りたいとマインドに語らせていて
そこにエネルギーを注いで、それを
考えつづけさせていること自体
すでにそうである自分への気づきを
ふさぎ、のぞみを遠ざけているからこそ
ただ、今、セロの空っぽの至福に
アクセスしたらいい・・というのが、こたえではある
わけですが
マインドは、まず「納得」したいわけですよね(^^)
そこで、交渉する必要がでてくるわけです
つまり、それが、ヒーリングであったり、さまざまな
統合するメソッド、アファメーションなどのツールです
(スピリチャル実践講座でもしょうかいしているので
参考になさってみてください
こちら→goo.gl/4aELO6
また、マインドとハートの関係についても話している
コチラも参照→ goo.gl/EcVJkq )
わたしたちは、それぞれ、プロセスというものを経験する
この時間と空間の領域を通して、ユニークに意識が
ひろがる旅をしています。
わたしとは、すでに、すべてである満ち満ちた無限の
叡智、情報をもち、圧倒されるほどの、至福と
自由な喜びのエネルギーであり、悟りそのものである
わけで、それは、ことばでは、当然、表現できず、
納得できないからこそ
自らが、さぐっていく、確かめていくように
設定していますよね
マインドは、ただ、今、ここのうちに
空っぽになればいいよなどと、いわれても
「瞑想して、からっぽになったけど、それだけ?」
といった、ノウハウやら概念にたよって、みずからの
ユニークな、満ち満ちた経験をさぐることを妨げたりします
だからこそ、このマインドの言い分を受け止めて
それが認められ、納得され、経験を自分のものに
していくうえで、
さまざまなヒーリングツールまたは
NLPのメソッドなどを、それぞれがピンとくる
ものを用いていくことで、それぞれユニークな
気づきが生まれていくものです
もちろん、特定のツールをつかわず
とにかく、スぺースにアクセスし、気づきを
広げ続けることに徹して、毎日2時間、瞑想する
とか、一切の、情報を断って
静けさにコミットするとか、それぞれのピンとくる
許可証に応じて、その変容を経験していくことも
できますよね
要は、すでにそうであるじぶんを認めていくことであり
そのために、なんでもワクワクすること(ピンとくること)
にフォローし、用いることを通して
これまで、深く条件付けられた、不足のメンタル構造を
崩していくプロセスが、気づきの喜び、目覚めていく喜び
であるかと思います
そこで、もうひとつ、思考を超越したい
もはやアップダウンの経験を終わりにしたいという
願いについて、気づけることを書いてみます
アップダウンというのは、快と痛みの刺激を
経験してるということですが
ほとんど、わたしたちは、そのために
生きているといっていいぐらいに、とりこになっています
何かが、何かの状態が、誰かが、
「快」をくれると信じているからです
その源を認める代わりに
それを得たら、しあわせになれるという前提で
あたかも、それがすべであるかのように生きています
ですから、「悟りたい」けれども
今は、そうでない自分といったセルフイメージを
信じていて、なんらかの自分が描く
「悟りのイメージ得た」と認識したら、「快」を経験
できると信じています
だから、追いかけます
だから、不足意識をおおきくします
願望やイメージは、いま、ここにすでにそうである
満ち満ちた領域にフォーカスするサインである
のに、それを、マインドは許しません
自分のイメージの条件にかなったら
快を経験するようにセットしていて
そうでないなら、痛みを経験するようにしています
いってみれば、わたしたちは
思考やイメージ、コンセプト、認識をとおして、
マインドの中で、痛みと快のアップダウンの
刺激を作って、それに中毒になっていたりするわけです
試練があって勝利があるストーリー
痛みと快のストーリーは、刺激的ですよね
おもしろいし、時には、感動もする
アップダウンをやめたいといっても
その刺激をあきらめられなかったりします
それ以上をしらない、というよりも
深い意識で知っていても、そこにあえて
フォーカスしていくことを許さないからです
マインドがさしだすイメージや、考えを
真に受けて、それを、あたかも真実のように
とらえて、
そこに、自分の力、喜び、または
自己肯定感、あらゆる望む経験を見出し
それにたよっているなら、当然、
マインドに振り回されますし
快と痛みの経験を重ねていくことに
つながります
そうであっても、意識である自分の
大部分がすべてを愛と叡智のうちに
おこしていますから、そこから、気づきが
ひろがり、快と痛みの経験から、
より、悟っていくプロセスを経験していて
その統合されて、悟っていくプロセスは
あきらかに、加速していますよね
では、その流れにもっと意識的に乗って
快と痛みのアップダウンの
いわば、三次元的、表面的な経験の
奥の、より深い意識、より深い次元の領域
から、経験していく経験を深めていくには
どうしたらいいかというなら、
シンプルに、やはり、関心をアウェアネスに
向けて、
アウェアネス、スペース
満ち満ちた、喜びの流れ、そのものの
拡大の経験を深めていくことです
つまり、マインドが認識していた
良い悪いに基づいて、快や痛みを
大きくしていた経験を、
むしろ、ひとつの気づきを
生むきかっけ、材料、とする
快/不快の表面的なマインドの
ストーリーの動きに酔ってしまわずに、
それをしばし楽しんだとしても
そこから、
深い意識への統合の動きへ
もっていくことです
つまり、意識のうちにあらわれる
すべての物事、事柄、(すべては
たいてい、自分の思考、考え、
意味づけ、コンセプト、5感の認識などで
あらわれてくるもの)を
良し悪しなしに、同様に、
愛とひかりの現象、気づきをひろげる
材料、として、
ニュートラルにうけとめていくこと
良し悪しのドラマにエネルギーをつかう
代わりに、それらのマインドにエンターテイン
されている代わりに、
それらを
0.00001%の形、物理次元の現象として
それをマテリアル、材料として、
99%の領域である深い意識と
統合して、新たな創造、へと変えていくこと
純粋な意識の動きである
創造エネルギー、BEINGとつなげることです
つまり、もはや、自分の考えだと
思っている考え、思考を、自分のものとしない
ただ、あらわれてきているだけ
そして、そこから、刺激を得ようと
しないことです
つまり、たいていそれを信じて
「快」の経験を取り込みます
そして、形にフォーカスした
思考を信じるなら、
当然、望んでいる条件やイメージ
状態に欠けるというという
不足のフォーカスを生むので、
痛みも生み出します
つまり、もっと悟りたい
悟っている自分(セルフイメージ)をゲットできたら
「快」なのだけれど
悟ってない自分(セルフイメージ)が
現在のわたしだから、「痛み」
などのストーリーをもはや
信じない、そんなセルフイメージを
差し出す、マインドの提案から、
快と不快のドラマを観て、それを
真に受けて、刺激を楽しむことをやめる
ということです
ご自身は、スペース、ドラマを
映し出すスクリーン、また、ドラマを
生み出しているもの
演者でもあるけれども、あまりにも
その演者としての役割に力を
注ぎすぎて、バランスを崩しているからこそ
ドラマにまったく、影響されることない、
自由な至福のアウェアネスである
スクリーンとしての自分を思い起こすことが
何よりも、必要で、
そこから、実は、すべての
創造が調和の内に、喜びの内に美しく
機能していくカギです
わたしたちは、気づこうと気づくまいと
快と痛みのドラマが大好きであるわけです
では、もし、ニュートラルであるなら?
まあ、それもひとつのストーリーだよね
ととらえると、たしかに、
熱がさめますよね・・・・
面白くないからこそ、
そんなことをしたくないのが、通常の
表層意識にフォーカスした状態です
でも、そこから、もっと、満ち満ちた
莫大な、ゼロの無限の領域を
センスしていくことを許していくなら
その表層意識の情報と
統合されて、より大きな深い
内側から湧く、クリエイティブなわくわくの
エネルギーにかわります
どういうことかというと、
悟ってない自分という考えが
マインドに浮かんでると気づいて
それを、真に受けて、痛みの
経験にする代わりに
悟りたかったんだ!
今、すでにそうである自分に
意識を向けようという動きと
共に、アウェアネスの自由さ、
BEINGの確かさにアクセスし、
あらたな神経回路を構築
させていく
あれ、自分は、こんなことをして
よくやってるじゃん、
こんな状況を引き寄せたぞ!
という思いがうかぶなら
今、そのわくわく、快の純粋な
エネルギーである源に意識をむけて
身体を持った自分が何かを
起こしたとか、状況や形が
いい気分にさせたのではなく、
小さな意識の自分の手柄
などでは、まったくなく
すべてである自分の
そのすばらしい表現の側面であり
ヒト意識の波動が、ただ、そのエネルギーに
アクセスして、最適化されていることが
現れているのであり、
快いのは、形や状況、結果、
自分のセルフイメージなのではなく
アウェアネスそのもの、
気づき、本来の自分そのものであることを
認めていくことができるわけです
つまり、マインドが生み出す
快も痛みも、すべて同様に
在って在る、よろこびの流れにのり
拡大しつづけるアウェアネスへの
気づきを深めていく経験をしていくことが
できるわけです
それをとおして
快と痛みの刺激は、薄れますが
その来ては去る刺激をはるかにこえた
五感やマインドが提供するものとは
比べ物にならない、
いわゆる人知を超えた、喜び
平安、自由、みちみちたご自身を
知っていく経験になっていくわけです
一瞬、一瞬は
何をこの肉眼が映し出そうと
どんな音という形で、マインドが翻訳しようと
この身体が、どんな感覚を提供しようと
それらすべての刺激を、
内なる深い
満ち満ちた至福の意識の領域への
気づきをふかめ、それ自体が統合をおこし
そこから湧き上がるBEING、
純粋なポジティブエネルギー
創造の流れをフローさせていくことができる
からです
そのように関心をより、思考や形の
表層意識ではなく、深い意識、スペースに
むけていくなら、
その本来の自分のエネルギーが
思考を考えをアイデアを与え、
行動を生み出し、創造に純粋に参加していく
ようになっていくかと思います
思考がオファーする
快と痛みの刺激以上に、いま、それら
あらゆる快の源、純粋なエネルギーに
関心をそそいでみること
それは、思考を超越するという現象として
現れてくるかとおもいます
思考を超越するのは、
身体を持った自分、小さなマインドではなく
この部分は、ただ、リラックスして、深い意識
スペースに関心を注ぎ、より強烈に
源のコーリング、愛に共鳴していくだけです
愛であるご自身が、すべてを
生み出していくに任せていくだけです
そして、マインドが、「思考を超越できたぞ」
とか、「ついに悟ったぞ」などなどの
ようなことを言うなら、
そんなことは、どうでもよくなっていきます
(ちなみに、その考え自体が、無意味な幻想です
そう思ったとたんに、思考にとらわれ、悟りは再び、
分離してることに気づきます)
なぜなら、ご自身は、今、愛である自分
自由なスペースである自分にわくわくし
夢中で、
今、それが、この身体を通して
何が起こされ、何が表現され、
何が現れようとしているのかだけに興味を感じ
そこから、力や喜びを経験していくからです
音声はこちら~