例えば、料理。

レシピ通りに正しく作れば

美味しい料理が出来る。

 

ただし、その料理の味付けが

自分の好みかどうかによっては、

その“美味しい”料理が

出来るかどうかは分からない。

 

つまり“正しい”は望ましい結果に

繋がるとは限らないのだ。

 

小学校で覚える年表の例で言えば

鎌倉幕府の成立年は

 1192年から1185年に

しかも、

 

 「何を以て成立とするか」

 

と言う定義によって、“正しい”は変わる。

 

そう“正しい”は動く。

 

宇宙の(物理などの)法則に

則ってることを“正しい”というならば

 

僕にはとても“正しい”とは

言い切れない。

 

宇宙の法則を悟っているわけではない。

 

「理に適っているようだ」

 

位は、色々勉強すれば

(今現在していることも含めて)

言えるかもしれないけれど。

 

すると、この世界は実際の所

 “正しいか否か”ではなく

 “理に適うかどうか”…場合によっては

 “利に適うかどうか”

で判断されているのかもしれない

 

なんて思ったりするわけで。

 

もちろん、社会で生活していく上で

“法(律)”を基準として

正しく生きるつもりであるけれど

 

“人”が作ったもの、完璧ではないことも

頭の片隅に置いておくことの方が

理に適っているようだ。

 

だから、心がけたいのは、

自分の中の“正しさ”の基準は基準として

まずは、その“フィルター”を使わずに

 

物事を捉える、理解する、判断する。

 

そこで情報を収集してから、

 社会でいう“正しさ”

 自分の中の“正しさ”

さらには、“理に適っているかどうか”

 

というような

沢山の基準で、物事を捉える

そんな自分でありたい

 

なんて思うわけで。

 

…それには、ずいぶんと

 “余裕”というか“懐の深さ”を

 自分の中で育てたいものだ

 

今日は・・・何の話だっけ?

たぶん、久し振りの

成長欲求の話だった気がします。

 

ではまた。

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