『銀河鉄道の父』(作者 門井慶喜 2017 刊)2024 8 27

 

 『銀河鉄道の夜』を著わした宮沢賢治の実像に、賢治の父、政次郎の視点(それは筆者でもあるが・・・)から迫るのがこの小説である。

 

 賢治が父次郎に改宗を迫った話は有名だ。

 

 しかし、父への激しい反発と抵抗のうちに、自らの文学を育んだというこれまでの想像は壊れた。二人は徹底的に対立した、と思いがちである。私は、商人(質屋)と文学者という対立の構図で捉えていた。しかし、それは違った。父に改宗を迫ったのは、賢治の純粋で一途な性格からきている。質屋という父の仕事に嫌悪を持ってはいたが、父に対する嫌悪感ではない。この著書を読んで政次郎と賢治は、むしろ同志ではないかと思うようになった。宮沢賢治文学を完成させるための、搦め手と大手からの攻撃であった。

 

 賢治を愛し、「宮沢賢治」の作品誕生を、限りなく応援した父親の姿が描かれる。賢治を囲む人物像が生き生きと蘇る。

 

 賢治は明治二九年(1896)八月、岩手県花巻町に、父政次郎、母イチの長男として生まれた。(この年「明治三陸地震」。6月15日。死者・行方不明21915人)。

 

 裕福な家庭環境に育ち、生涯愛され続けた賢治。二歳年下の妹トシ、六歳年下の弟清六、他にシゲ、クニの五人兄妹で、彼は家族から愛された。父の職業に反発は感じても、父は最後まで賢治の理解者であり応援者であり庇護者であった。時に反発の対象だとしても、精神的な支えであり、常に父の資金が賢治を助けた。

 

家族に愛された賢治

 

 北上川の氾濫と赤痢、無縁ではないだろう。

六歳の賢治は赤痢にかかり、隔離病舎に2週間入院した。父、政次郎は医師の感染の恐れがあるという忠告も聞かず、ずっと就きっきりで看病し、自らも感染して生涯腸の力が弱くなった。夏は固形物が食べられず粥を食べた。

 このときの喜助(政次郎の父)の政次郎に対する「おまえは父でありすぎる」という評価は、賢治に対して生涯変わらぬ政次郎の態度である。

 

 明治三六年、小学校入学。

 四年生の頃、賢治は石に興味を持ち山や川を歩き回った。石が好きで「石っこ賢さん」と呼ばれた。

 

 数日後、賢治は、トシと二人で歩いていた。例によって放課後である。ふたりとも、母にたのんで縫ってもらった麻袋を首にかけ、家の前の道をずんずん東へ向っている。道ばたの人家がまばらになると、正面に、ささやかな土手があらわれる。のぼれば空がぐっと下降し、視界が開ける。(中略)賢治は、左へ体を向ける。川を右手にながめつつ、土手を北へさかのぼるのだ。(中略)一五分ほど行くと、風景が変わる。河床の色がにわかに青白くなる。もちろん天然の色なのだけれども、どの川にも見られない人工的な、硬質な、清潔な感じが、――― 夢のような。と賢治には思われるのだった。(『銀河鉄道の父』より)

 

 この場面は賢治の育った花巻の地形と地質を表している。仲のよい兄妹の関係もよく表している。門井氏(この作者)の目は温かく優しい。

 

 父は鉱物学の入門書を買い込み、自身の知識を養い、賢治に話す。古生代と中生代に生まれた北上山地と、新生代に生まれた奥羽山脈に囲まれた花巻を北上川が南北に流れている、川はそれぞれの山から石を運び、いろいろな時代の石が花巻に運ばれてくることになる、父はそんな話をする。

 石集めに熱中する賢治に、父は忠告する。

 

『これでは集めただけではないか、賢治。何千、何万とあったところで山のりすの巣のどんぐりとおなじだべ、何の意味もね。これをまごと有用たらしめるには、台帳がいるのだ』(『銀河鉄道の父』より)

 

 質屋・古着屋を営む政次郎の正鵠を射たことばである。そこで、賢治はここぞとばかり標本箱を要求した。父は京都で購入したが高価であった。

 

 質屋に学問はいらないと思っていた政次郎だが、賢治の意思を尊重して盛岡中学進学を認めた。

 入学は明治四二年。そして五年後卒業(大正三。1914年)。年齢は一八歳である。その頃、肥厚性鼻炎となり入院、手術した。七歳の頃のように、父が付き添う。賢治は入院中にチフスにもなる。

 

 退院後、帳場に座るが賢治は質屋に向いていなかった。質草を持ってきた農民に同情して、高額で引き取るのを見て、父は質屋の客対応の指導をする。質屋は相手の状況を聞いてはてはいけない。だが、賢治は指導を受け入れなかった。

 父は地域の文化に貢献していた。経済的な部門を全て引き受ける地域の文化講習会は、父の意向に沿って仏教色が強くなっていく。政次郎は熱心な浄土真宗(親鸞を開祖とする)の信者であった。講習会には賢治も出席して、賢治も仏教に入れ込んでいった。特に日蓮宗に惹かれていった。

 

 大正四年、一九歳。父は賢治に進学を許した。定職を持たず、質屋も手伝わず宗教書を読んでいる賢治を心配したのだ。賢治は盛岡高等農林学校を希望し入学した。その選択は父の望むところではなかった。

 この年妹のトシは日本女子大学校(家政学部)に入学して東京に出る。

 

 賢治は製飴(せいい)工場を作ることを考えた。ドロップ生産である。

 また、農林学校では盛んに父に借金を申し出ている。

 

 ふりかえれば、無心の手紙は、これが初めてではなかった。賢治は中学生の頃から洋書を買うとか、友達が病気になったとか、思いつくかぎりの名目を立てて手紙で金をせびってきた。(『銀河鉄道の父』より)

 

 彼はここでも鉱物に魅せられ関教授らと採集研究旅行にでる。鉱物学、土壌を学び、関教授とともに半年にわたり土性(どせい)調査を行った。「学業は、少年時以来自然との交感の中で育っていった賢治の感受性に対して明確な認識の方法と言語とを与え」(新潮日本文学アルバム12宮沢賢治 天沢退二郎)とある。

 

 同人雑誌「アザリア」創刊、毎号短歌を発表。二一歳の頃である。盛岡農林は大正七年三月卒業。卒業後は研修生となったが、肋膜を患い研修は終了した。

 

 賢治二十二歳の時(大正七年一二月)日本女子大学家政学部に在学中のトシの入院につき、見舞いのため母と上京。途中で母を帰し、翌年三月まで看病する。トシの看病は賢治にとって楽しかった。トシは賢治が童話作家になることを勧めている。

 四ヶ月の療養生活を終えて賢治とトシが花巻に帰ってくる。以前のように盛岡の中学校にいる清六を除いて兄妹が集まる。

 

 晩飯のときなど、政次郎は、上座から見わたしつつ慄然とすることがたびたびだった。彼らの食いしろはみな政次郎ひとりの肩に乗っているのだ。食いしろだけではない。賢治の本代も、トシの薬代も、クニの学費も、シゲの着物代、盛岡に住んでいる清六の生活費一切も。

 政次郎は四十六なのである。人生五十年という。同世代の男がぼちぼち隠居のことを話題にしはじめる今日このごろ、政次郎は、隠居どころか扶養の人生が最大に達している。(『銀河鉄道の父』より)

 

 政次郎の気持ちには、悲しみと焦燥がある、トシの病、賢治の就職。

 

 賢治は「人造宝石」工場をやりたいと(以前は「製飴(せいい)工場」)言うが政次郎は受け付けない。

 妹のトシが花巻高等女学校の教師になった頃、賢治は日蓮宗系の国柱会に入会た。「南無妙法蓮華経」を唱え、太鼓を鳴らし街中を歩く。父に対しても改宗を迫る。父と子の口論(論争)が連日続いた。

 

 国柱会にも入れ込み修養のため二十五歳のとき「家出」同然で東京に行く。父親から仕送りが半月に一度あったが、「謹んでまっし奉る」と書いて送り返した。父からの送金を拒否したのである。ガリ版書きのアルバイトで食いつないだ。ジャガイモに塩をふって食べるなどの困窮生活で、やせにやせる。

 

 花巻高女で教員をしていたトシが病気になったという知らせを受け、賢治はトランク一杯の童話を持って帰郷した。「家出」後7ヶ月であった。トシは結核であった。かつて祖父の喜助が使っていた隠居の家を改造して「桜の家」と称し、トシはそこで療養した。

 自分の書いた童話を、賢治は病床のトシに読んで聞かせる。

 

「題名は『風野又三郎』だじゃい。どっどどどどうど、どどうど、どどう。ああまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろもふきとばせ。どっどどどどうど、どどう・・・‥」賢治もまた、鞠のはむような声だった」(『銀河鉄道の父』より)

 

 前後するが東京での窮乏生活の中で、作品が溢れるように湧き出てきたときがある。寝食を忘れトイレを忘れ書き続けた。そこでの描写は、どうして童話を書くか、賢治の思いが出てくる。

 

 長い縁ということがある。小学校のころ担任の八木先生がエクトール・マロ『家なき子』を六か月かけて朗読してくれたこと。トシに、書いたら。と勧められたこと。それにくわえて、昔から自分は大人がダメだった(中略)ふり返れば、政次郎ほど大きな存在はなかった。自分の命の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、抑圧者であり、好敵手であり、貢献者であり、それら全てであることにおいて政次郎は手を抜くことをしなかった。ほとんど絶対者である。今こうして四百キロを隔てて暮らしていても、その存在感の鉛錘はずっしりと両肩を押さえつけて小ゆるぎもしない。尊敬とか、感謝とか、好きとか嫌いとか、忠とか孝とか、愛とか、怒りとか、そんな事ではとても言いあらわすことのできない巨大で複雑な感情の対象、それが宮沢政次郎という人なのだ。(『銀河鉄道の父』より)

 

 賢治の父への気持ちも表されている。

 

 結核で休職中のトシが、正式に花巻高女の教諭の職を辞した。

一方、賢治は稗貫(花巻)農学校の教諭となる。俸給は月八十円であった。

 

 父と子の相克、つまり、政治郎と賢治の相克がトシの臨終の場面で描かれる。

政次郎は最後の時を迎えるトシから、遺言を聞き取ろうとしている。今しか無いと思う。それが親の務めだと思う。一方、賢治にとっては人生の「伴侶」ともいうべき存在であるトシへの命が、なお長らえてほしいという強い思いがある。長くなるが引用する。

 

 肉や骨は滅びるが、ことばは滅亡しないのである。トシという愛児の生きたあかしを世にとどめるには、政次郎には、この方法(注 遺言の聞き取り)しか思いつかなかった。

 そのためには、誰かが憎まれ役にならねばならない。

 (他に誰がいる)

 政次郎はおのが頬の熱さを感じた。自分は今泣いているのだ、その熱さなのだと、みょうに客観的にとらえられた。

「お父さん、トシはまだ・・・・」と賢治が横から抗議するのを

「うるさい、」

 一蹴して黙らせ、あらためてトシに

「さあ、トシ」小筆と巻紙を、突き出すようにしてトシに見せた。

 トシはそれらを見た。

 信じがたいことだが、頭を浮かせた。身を起こしたつもりなのだろう。そのままの姿勢で唇をひらき、のどの奥をふり絞るようにして、

「うまれてくるたて、こんどは・・・」

 その瞬間。

「あっ」

 政次郎は横から突き飛ばされた。

 賢治だった。政次郎のひざが崩れると、賢治はむりやりトシとの間に割って入り、耳元に口を寄せて、

「南無妙法蓮華経.南無妙法蓮華経」

 トシの頭は力なく枕に落ちた。その唇はすでにぴったりと閉じられている。

「南無妙法蓮華経.南無妙法蓮華経」

 賢治のお題目は続く。声がいつもより高かった。政次郎は膝を崩したまま、呆然と見るよりしか出来ない。トシはまた唇をひらいた。こまったように見える顔で、

「・・・‥」賢治はお題をやめ、

「えっ?トシ、いまなんと?」

「耳、ごうど鳴って。・・・」

唇を開いたまま、ぼんと右の肩を跳ねさせた。

それが合図ででもあるかのように、顔の筋肉が停止した。(『銀河鉄道の父』より)

 

 トシ臨終の場面である。トシ死亡 賢治二六歳。トシは二歳下である。

冷静に必死に娘の死と向かい会おうとする父、一方、死の悲しみに我が悲しみをぶつける賢治。政次郎と賢治とトシへの筆者の愛情が筆に力を与えている。また、政次郎を通して文学・ことばの力が論じられる。

 

 トシは賢治の最もよき理解者であった。花巻高等女学校の教師でもあり、英語と家事を教えていた。彼女の死により、『レモン哀歌』『無声慟哭』『松の針』の、慟哭の詩が生まれる。

 

 賢治の詩と童話が、岩手毎日新聞に載るようになる。政次郎はそれがうれしくてたまらない。何部も買って知人、親戚に自慢して回り配った。

 

 賢治は自費出版も出した。『春と修羅』という詩集である。その八ヶ月後『注文の多い料理店』を出版。だが、賢治の本は売れなかった。

 

 花巻農学校の教師は4年4ヶ月勤めて辞めた。そして、家から15分、かつてトシが療養した桜の家に移り住んだ。創作活動に本腰を入れたかったかも知れなかった。賢治は、農民の本当の苦しみが分かっていなかったと自覚し、農民の身になって考えたいと思ったのかも知れなかった。桜の家に「羅須地人協会」と墨書した看板を掛けた。

 

 農耕をし、音楽鑑賞会をひらき、読書会を開いた。肥料の勉強会もした。もちろん創作もした。

 しかし、賢治の身体を病がむしばんでいた。トシと同じ病であった。病の中でも面会に来る人には会った。

 

 賢治にも死が近づいている。質屋をたたんだ政次郎は、賢治の看病をするが、自省的になり諦観する賢治を励ます。

 

 父親の業というものは、この期に及んでも、どんな悪人になろうとも、なお息子を成長させたいのだ。「お前がほんとうの詩人なら、後悔の中に、宿あのなかに、あらたな詩のたねを見いだすものだべじゃ。何度でも何度でもペンを取ものだべじゃ。人間は、寝ながらでも前が向ける」  

 賢治は目をひらいた。わずかな瞼のうごきだったが、たしかに瞳は、かがやきを増した。

 

 生活は全て父親の支えである。病気がちであり、世間には疎い賢治にこの父がいなかったら、賢治は宮沢賢治として作品を残せなかったのではないか。

 

 賢治の死の前日、農民が肥料の相談に来た。体を支える事もできないような状態で、しかし、凜として1時間も話を聞いた。

翌日、最期を迎えた。賢治三七歳。昭和八年、日本は侵略戦争を更に推し進めていく時期である。遺言は妙法蓮華経千部を作り人々に配布することだった。

 

 政次郎はいよいよ質屋をやめる。小学校を出て、学問はいらぬという父の方針に従い、四〇年あまり、自分の人生を捧げてきた。子どもたちを学校にやり、必要な物を買い与えたりする資金を生んだ家業である。賢治も清六も後を継がなかった。清六は宮沢商会を釘やら針金を扱う卸(おろし)業から初め、ゆくゆくは商売を広げようと考えている。

 

 最後のシーンは次女のシゲの5人の孫達たちに、童話『銀河鉄道の夜』を読んで聞かせる政次郎の姿を描く。仕事や子育ての気遣いもない。父子の自己主張の確執もない。

 シゲが素麺の入った盥(たらい)を運んできた。素麺は銀河のように見えたかもしれない。孫達と盥を囲んで、冷やし素麺を食べるシーンは、それまでの政次郎の戦いが平和の中(うち)に収斂するかのようである。部屋には仏壇がある。そこには3回忌を迎える賢治の位牌があるのだろう。

 

 ほっとする終章である。(2024 8 27)